制服記

シティガールたちよ。

さんどめのはる

久しぶりに友達の書くブログというか、それを見に行ったら私のことを書いたであろう記事を見つけた。

人から見た自分をじっくり味わえるので、人が自分について書くのを見るのは嫌いじゃない、傷ついたり嫌いになったり嬉しくなったり愛しくなったりする覚悟をして読むものだ。

それを見て自分がずいぶん進んできたと思った。

いまだに理性と感情に揉まれているけど。

まず、文章を書かなくなった。感傷に浸るのをやめてしまった。

最近やっと気づいたのだけど、はずかしいことに、私は自分の近くにいる自分が執着してる人に多分に影響されるらしい。特に、そのとき付き合ってる男とか。彼は合理的で、女心がわからなくて、感傷みたいな曖昧な感情に興味がなくて、すぐ言い切るし、自分の価値観を人に押し付けがちだ。なぜ私は私がいやだと感じるものをもった人と付き合うのか。まあそんなもの明快で、私がいやな性格なんてのは多少の執着や憧れがあるわけで、つまり自分が持ってないものを持つ人に惹かれる、そんな単純なこと。私がすきになる男のなかでももう少し私と親和性があるひともいるのだけど、どうしてか今回は似ているようでかなり離れたひとを選んだ。そんな彼に多分に影響されてしまった私は、ひとを正解で見てしまうようになった。この人は私よりどうこう、これに関しては私の方が知っている、まず頭の切れ具合はどっちが上だろうなんて言う風に、なにか、誰かが都合よく決めたいわゆる「優秀なひと」という基準にあまりにも浸食されていてかなり気持ち悪い。彼がそういう観点で、少なくともそういう価値観を含んでいそうな観点でひとを評価しているので、私も尊敬する彼に習っているわけだ。最悪。そんな人間にはなりたくなかった。ひとはどうでもいいけど私は、私はそうじゃなく生きてきたのにな。

あとは、周りの環境。いわゆるトップ層の「優秀なひと」が求められる環境に飛び込もうかとしている私はそんなひとたちから色々を盗みたい。ただそこには、選民思想や頭の切れ具合みたいな評価がちりばめられていて、やはり私はそこに染まりつつある。そういう理由で利己的に、自己中心的に、薄情になってしまった。親しい友達や彼氏といてもビジネスライクな考えを強引に使おうとすることとか、友達と長時間いることが苦痛になってしまったこととか、すごく嫌で、なのにどこかそれでいいと思っている。搾取とか利害とか使う側とか使われる側とか、そういうんじゃなくて、そういうんじゃない。私が求めているしあわせは違うはずなのに。ああ、資本主義で勝つ人間は資本主義の評価基準をうまく使える人間だというそれだけの話か。

「理性と感情は両立すると思うよ」と言い切った彼は、理性に多分に傾いているようにしか見えない。ビジネスにもまれながらも感情がよく見えていいなあと思っているひとはビジネスの話では少し感覚的すぎると感じた。私が中間を生きれる人間だと豪語するのはすこし傲慢な気がする。

 

それから、すこしは自意識過剰を認識して排除できるようになった。

ひとはそんなに私のことを見ていない、という言説に寂しさではなく気軽さを感じるようになったし、空気を読む世界から一歩を飛び出すことに楽しさを覚える。すべてのひとから好かれようと思わないのは、好かれるというのは相手の都合のいい存在になればある程度コントロールできると思ったから。自分の外見にある程度の自信がついたのもあるけれど、モテることにそんなに執着しなくなったのはコントロール次第でどうにでもできると感じているから。別に私の化粧がすこしうまくいかなくたって気にしているのは私だけ、というのはすごく楽で完璧主義から解放してくれる。すぐ忘れられてしまうからこそ大胆にいられる。

 

そんなものだろうか。最近自分の成長を実感できているのは、何も成果が見えなくて苦しんだあの期間があったからで、私はいつもそのサイクル。今回は出口がみえない気がして焦ったけど、やっぱり大丈夫だなと思えた。

最近の私はいろんなことを経験してそれらを全部飲み込むことで強くなっている感覚。嫌なこと、だめなこと、小さなチャレンジ、それらを考えたり乗り越えてつぎへの行動につながり、思考がまとまってきて自分に落ち着いている。こんなに行動が直接思考に影響を与えている感覚ははじめて味わった。

今の課題は、ひとをジャッジしないこと・ひとにジャッジされないこと。その根底にあるのは愛だし、自分とひとを切り離す強さだし、比べずにまかなえる自信だ。何か、チャレンジすべきなのだと思う。ひとに評価されることに甘んじてはいけない、私が相手に安心を与えたい。ひとと同じルートを辿って安心するのではなく、私が私なりのルートを切り開かないと未来が見えない。