制服記

いつまでも不自由を愛さないでね。

日記

まとまりなく、ただの日記。

 

結局、自分が何を思って、何を大事にしていて、どういう選択をしているかをきちんと認識して、納得している人がかっこよくみえるのではないかなと思う。

たぶん、どれだけネチネチしていたって、腹黒くたって、自分の哲学があってそれを大事にしている人は、合う人にとってはかっこよくみえるんだろうな。

だいすきな先輩と数カ月ぶりにご飯に行った。

先輩とは大体近況報告、すきなものの話、考えていることを話すんだけど、今回は非常にダメージが大きかった。もちろん、先輩はすごく暖かくてやさしく伝えてくれるんだけど、陳腐な言葉で言えばたくさん刺激をもらったということ。

私は私の思慮深さに対しては結構自信を持っているようで、他の人に負けたくないと思う部分の1つだったりする。アイデンティティを多少そこに置いてるからすごく悔しくなるんだと思うんだけど。それはさておき。

先輩は、いつのまにか?先輩に対していつのまにかというのは失礼な話なのだけど、結構一人で考えるタイプのようだから、知らぬ間にいろんな出来事や感情と向き合っていて、私が悩んでいることにすでに答えを出している。それが悔しい。しかも、自分が経験してきてすでに乗り越えたことにまだ向き合っている私の話をゆっくり聞いてくれて、暖かく返事を返してくれる。そんな所作ができることにも感動し、尊敬を覚える。

そもそも、いつのまにか、何かを教わる、自分が下に立つことで先輩とうまくやるといういわゆる後輩ムーブではなくて、本当に純粋に人間として先輩と付き合っている、付き合ってもらっていることがしあわせである気もする。ひとえに、先輩が私からでも学ぼうとする素敵な姿勢で接してくれるからかなとは思うんだけど。

そう、それで、私は先輩がすでに乗り越えていることにまだ向き合っているのかというのが悔しかったし、それより個人的な感情というより相対的に自分は優れているわけではないのだと思い知ったことが悔しかったのかもしれない。

前に先輩とあったときよりも、多少人の話を聞けるようになったから、こうして悩めているかなと少し思う。私が結局悩んでいるのは、自分の囚われていることと自由を求める気持ちや周りのみんなの自由さを見て憧れる気持ちとの折り合いの付け方で、自分の囚われていることとは、どうやってありのままの自分と評価されたい自分の折り合いをつけるかということである。

私は一般的な女の子には当てはまらないところが多少なりともあって、普通ができない。多少人に驚かれるところがあって、それを開示するのに勇気がいる。愛されなければ意味がないのに、愛されないかもしれない素質を持っている自分を人に見せるなんてギャンブルだ。そうしたギャンブルみたいな要素を自分の中に抱えなければいけないこと、隠しておくべき自分がいることを負い目に感じて、隠しておくべき自分が発露してしまった場合にひたすら凹む。こんなんじゃ愛されない、愛されない自分なんて、とずっとずっと否定している。

いろいろ調べて今日得た答えは、「愛されなければ」は生き抜くために自然と染み付いてしまった強迫観念であり自分が選んだ答えではないのでは、ということ。実は人に言われたことのある言葉だ。「愛されなければいけないわけではない。愛されたいと思うことは自然だし無害だ」そうした旨のことを言われたことがあった。

私的には愛されなければ、と、愛されたいは同じところから出てきた感情だと思っていた。だって愛されなければいけないから愛されて自分の価値に安心したいのだ。けれど、もしかしたら違うかもしれないと少し理解できた。愛されなければいけないというのは自分の経験から作られた思い込みで、愛されたいのは私が人とのつながりから喜びを得るから。愛されたくて愛される行動を取るなら、そのとき感情との葛藤は起こらないはずだ。愛されたいときは愛される行動を取ればいいし、自分のやりたいようにやりたいなら好きに行動すればいい。いつでもどこでも愛されなければいけないわけではない。自分が囚われた経験をもう少し正確に表すと、いつでも人が不快にならないように行動しなければいけないわけではない。子供のころと違って自分で環境を選ぶことも一人で生活していくこともできる。誰かのいうことを、望む行動を取れない自分を責める理由なんてなかったんだ。でもやっぱり愛されたかったからさ、小さなときは。

あとは、物事を乗り越えていく早さについても、何が要因なんだろうと思う。心の成熟が早い人って、結構タフな出来事を乗り越えているイメージがあるから、根本的な問に至るほどの強い経験をしてそれを乗り越えた数なんだろうか。強い経験から得た価値観をそのまま内製して言葉にしづらい人もいるし、言葉にして理解している人もいる。私は、きっとそのまま内製してしまったら、忘れて悩んだりしそうだから、経験して言葉にしていくのがいいのかな。

昨日の夜から今日ずっと考えることしかしてなくて、少し成果が出て安心している。これは一時的な答えに過ぎないから、安直に言葉にして納得しちゃうのもなんだかなというところはあるんだけどとりあえず、どうにかしたかったのよ。

 

それから、最近褒め言葉を受け取れていないなと思う。

誰から褒められても素直に受け取っていないし、本当にうれしいと思っていない。前者は、もっと上があることを知り、謙虚でいるべきと思ってしまったんだろう。人生何かを成し遂げるためだけにあるわけでもなし、プロセスこそがたのしいのだと分かったつもりでも、周囲10m程度を見て相対的にできることをアピールするのがいやだった。早く突き詰めないと、私の好きなこととして語れない。そう思って、上を見続けるしかなかった。私は完璧主義なところがあるから、できるようになってから〇〇と思いがちだけれど、相対的に優れていることで誰かに頼られたりするし、完璧でなくとも始めないと始まらないんだなあと先輩の話を聞いて再認識した。後者は、どこにも権威を認めたくないなと思ったから。私が認められるべき権威があることは苦しくてやめたかった。権威を認めない事自体はいいのだけれど、人に評価されたいという気持ちがある限り、うれしいと思えないのは問題がある。ああこうやって自分で問題を永遠に設定していくんだな私は、、

褒め言葉然り、いまあるものを愛せていない。私が疑いの目を向けていた恋人の行動だって、POPEYEでは「これが令和のニュースタンダード。」とか言われていた。なんだ、ああ私なにも間違っていないじゃん、私が自信もてばいいだけじゃん。POPEYE構文に励まされるとは思っていなかった。自分にあるもの、たくさんある。何もできない期間が続いていたけれど、その期間だって、誰かとの関係が続いた何ヶ月なわけで、前の自分が持っていなかったものを持っているのかもしれない。成長していない部分がいやでいやで本当にいやで嫌いでたまらなくて、自分を全否定しちゃうけど、いまあるものでもしあわせになれる、過去は過去でいまはいま。新しい自分になっていい、きっと。過去の自分と今の自分を切り離したっていいはずよ。

 

今日はとりあえず眠くなってきたので終わり。

続きはのちほど。つぎは自分の好きなものと嫌いなものについて。