制服記

いつまでも不自由を愛さないでね。

無条件に愛せたら

人を、その人自体を、その人の存在自体を愛せることがあるだろうか。

 

私は割と多様なタイプの人間と付き合える方だと思うが、それは私が彼らの嫌がることをしないから、というのが1つの理由であると思う。

恋人がいきなり送ってきた、羅列された私の好きなところは、だいたい、彼にとってありがたいことか、私の思想や考え方に分けられる。

自分と友人との関係性を有り難く貴重なものに思うのは、誰かとの関係にはない何かがあって、また、煩わしく感じる何かがないからかもしれない。

 

本当に、その人が何をしてもいい、その人であればすべて許せるという境地に、私が生きている間にたどり着けるだろうか。

 

その人、とは何なのか。

あくまで自分のフィルターや偏見を通してしか人を見ることはできない。つまり、自分が経験の中で培ってきた嫌だったことや嬉しかったこと、逆に自分にはなかったものとの比較で人を見ている。

恋はいつも幻影である。自分の中の理想を、理想に近しいと思われる人間にみて、勝手に期待して好きになって、そしてしばらくして現実に気づいたりする。気づかないほど盲目的に恋できるか、または現実を許していけるか、どちらかでしか恋は続かないのではないかと思う。

 

さらに、その人、とは時間軸を含むのか。

人は変化する。すぐ環境に飲まれる。志向は変わる。行動が変わる。

いま、目の前に対峙するあなた、を瞬間的に愛せればそれを愛と呼ぶ、というのも然り、変わっていく1人の人間の人生をすべてまるごと愛することを愛と呼ぶ、というのもまた然り。

前者を愛と呼ぶならそれは特にその人が指す範囲について、とにかくいう筋合いはない、明確なのだから。

後者を考えるとして、変わっていく人間をまるごと愛する、というなら、そこには、「ただし自分の好ましい範囲内で」という注釈はつかないのだろうか。どんなことをしてもよい、心底自分には理解できないことをしてもらってかまわない、というなら、それは本当にその人を愛しているのだろうか。それでは、誰でも、人間誰でも愛せるのではないか。だからもちろん、博愛主義であるというなら納得しやすい。もし特定の1人または複数人を愛するというなら、少し不思議な気がする。

一時点において、とても気に入ったから、その人の人生をすべて愛することとする、というならまた素敵だとも思う。そのように、瞬間の出来事で愛してもらえるなら、一瞬与えられた輝きがそれほど強かったということで、ある意味、全肯定されているような気もして心地よさそうだ。

 

条件のつかない愛を、誰かに与えることができるだろうか。

自分と血がつながっているから、一生一緒にいると誓ったから、そうした前提を一切おかずに、誰かをずっと温かく愛すことができたら、すごくやさしく穏やかに生きていける気がしている。

 

1つ、瞬間的に愛するというのは答えなのかもしれない。

別に、時間を乗り越えて人を愛さなくたって、いま目の前にいるあなたが愛おしい、と思えばそれを愛と呼ぶこともできる。

いつのまにか、私達は、昔の人の言うこと、今まで言われてきたことを知らぬ間に取り入れて、他人に納得してもらえるか否かによって自分で得た定義すらを推し量って、妥当な、妥当と思われるような定義を探している。

瞬間的に愛するだなんて愛とは言わない、そういえばかなり妥当っぽい。ずっと、誰かの生涯に添い遂げることが美徳とされてきたこの国だ。

けれど、そうした直感的に美しい物語に惑わされず、自分の思惑を注意深く見つめて、自分なりに誠実に定義づけ実行できたら、「常識はずれだ」「良識がない」と、美しい物語だけを盲目に正義と思う人に言われたって、本当はそんなことないのではないか。

 

いまだに、誰かのいう愛の定義に納得ができないのだった。