制服記

いつまでも不自由を愛さないでね。

いきがしづらい

ここのところずっと、心の根底で腹を立てている、常に。

本当は、ここのところ、ではなく、ずっとかもしれないとも思う。

 

最近は、小さなことがやけに目につく。

狭いアパートで、どこかに手をぶつければ壁を叩きかえす。床の掃除を数日できていないだけで、すぐホコリが溜まることにため息をつく。コーディネートが決まらなくて授業に少し遅刻して、誰が時間なんて概念を作ったんだと恨めしく思う。信号待ちで少年に数秒見られ、カラーレンズのめがねが浮いているのか気にかかる。

朝から、小さないらだちと、そのいらだちを抑える理性との戦いで疲れる。

 

ずっと、みんながスルーしている事柄を勝手に大げさに慈しんだり、嫌ったりしている。

男の子が、承認欲求とプライドの高さで自分の首を締めている様子は、遠くから眺めている分にはすごくかわいい。自分の業績を黙っていられる品性と自意識の強さを持った人、抱きしめたくなる。酔って弱さを見せる女とそれに群がる男たちは、浅ましい。言わない品性、なんていうけど大して誰も気づいてくれない。

奥底で絶えず何かに意見を言っているのは、私の性分なのかもしれない。美意識が強いからね、とでも思わないと、他人がスルーしている事柄に自分の感情がこれだけ振り回されることに納得がいかないわけだ。

自分の嫌いなところは、私の原動力になったり、理性になったりしてきた、こういうとげとげした強い美意識、はたまた規制だ。

 

強い美意識は、すぐによくわからないものさしで自分と他人の行動をジャッジして非難して感情を生み出す。けれど、その感情を外に出しては色々不都合なことが起きるのは十分存じ上げているので、ひとり、感情と理性を戦わせないといけない。

思えば、そんな風にひとり葛藤する場面を多々経たことで、「人間は生来孤独である」というような巷の言説を少しは理解できるようになったのかもしれない。

 

自分を拠り所にすることが、自分のすべてを受け入れることであると、今は言える。

多分誰だって、本当は全部理解されて受け入れられたい。自分のすべてを、自分にとって好ましい態度で聞いてもらって、それでも何があってもきみのことを愛しているからね、と特別扱いされたい。

けれど、全部を話すには私たちは恐れを知りすぎた、全部を理解してもらうには生き方が違いすぎた、私にとって好ましいすべてを学習してもらうには出会うのが遅すぎる。

全部を託したいと思った誰かに否定されても気丈に振る舞えるほど、自分の価値観を確立できていない青い私たちは、何でも受け入れてくれるひとを、自分の全部を見てきてそれでも私を見捨てないでいてくれる人間を、一番近くに見つけるのだった。

そうして、少し孤独を受け入れて、それでもさみしくて誰かに心底愛されたくて、今日も新しい出会いと強いつながりを求めて、他人と時間を共有していく私たち。

数歳年上の女優の結婚報道を見て焦燥感を抱くのは、結婚適齢期で結婚しなくてはという焦りでも、結婚ラッシュに取り残されてはいけないという見栄でもなく、きっと、たった一人で人生を歩んでいくことへの心許なさと退屈からだ。

友人たちは普通に結婚していくのだろうし、親とて私の生涯に付き添ってくれるわけではない、仕事に生きるといったって私は仕事を生活の全てにできる自信がない。

特段結婚年齢に対するこだわりはなかったがゆえに、恋人に聞かれた「何歳で結婚したい?」に「特にない」などと答えてしまい慌てて訂正したはずが、今では目的の曖昧な競争にのせられているよう。

あー、別に異性でなくてもいいのに、とか、そんなことばっかり思っている。友人と言い合う「一緒に田舎いくか!」「◯歳までに結婚できなかったらシェアハウスしよう」にちょっと期待して後に落胆する、この流れを何回やっただろうか。

誰か、全部分かってくれなくてもいいから、お互いとりとめもない話から真面目な話まですきに話せて、一緒に穏やかな時間を過ごせるひとと、私の愛をすべて捧げられるひとと、早く会いたい。希望がほしい。なんだか最近、息が深く吸える感覚がない。

 

自分のすべてを許すことが、堕落への長い道に繋がっている気がして怯む。

ああなりたい、こう見られたい、そう思っている方が美しくなれる気がする。ただ、気がするだけだ。

このように在るのが快適だから、ではなく、何か結果を得るためにああありたいと思う限り、私は規則に縛られて、いつまでも身構えながら世間を歩いていく羽目になる。

自分の求める自分と、世間で賛美される人間像と、親しいひとの理想像と、その場その場に合わせていけるからこそ、そうでない、強度のある自分がほしい。その強度は、どれだけ判断して経験して腑に落ちた価値観があるか、に依存するのだ、そう思って、歩んでいくしかないんだろう。

長い道のりと、これから待ち受ける辛さに軽く絶望しながら、でも途中で立ち止まって歩んできた道を振り返ったときの満足感に期待を抱いて、進むしかないのか、そうではないのか。