制服記

いつまでも不自由を愛さないでね。

わたしたちといもうとたちのゆくすえ

ピアニストを題材にあつかった映画を見て、美しさに涙が出た。

スポーツ選手のあの凛とした強さのある目をみて、はっとさせられる。

ずっとなにかに集中してのめり込んできた人に憧れて、ときに背筋を正されたつもりになって、またそんなこと忘れて俗の世界にまみれている。

私たちはかんたんに、他人の人生を単なる娯楽として扱う。

実際の生活になにも影響しないものとして。

 

ピアノで演奏されるクラシックを聞いて、小学生の頃を思い出す。

あの頃私たちは、みんな、社会人くらい忙しないタイムスケジュールで動いていた。

学校から帰ってきたら、親に怒られない程度にランドセルを玄関に放り投げて、行き先を伝えて小走りで目的地へ向かう。1時間しかなかろうと躊躇なく遊ぶ約束を取り付けたし、あとのことなんて考えず体力のあるかぎり全力で遊んだ。するとやがて、チャイムがなって、あ、今日はピアノに行くの、おれサッカー、なんていってなごりおしく別れる。今度は着替えて、親に急かされながら車に飛び乗って、習い事へ向かうのだ。

ただやりたいという気持ちだけではじめるのに、毎週律儀にもなにかしらを上達させることに夢中になっていた。

 

中学生になると携帯をもつことが一般的になり、スマホが広く普及していった時期と重なっていた記憶がある。いまでは私ら世代で使っていない人を見つけるほうがむずかしいほどのSNSも、あの頃は新しい遊び道具だった。

そしてSNSで他人の生活を覗き見ること、知らない誰かの教えてくれる有益情報を参考にして購買をすること、自分の考えやすきなものを声高らかに表明することに慣れたのが高校生くらいか。

 

自分のスマホで、スクリーンタイムという機能を利用している。

これは大変便利で、指定したアプリを開いた合計時間が定めておいた基準を超えると、簡易な利用制限がかかるものだ。

SNSにスクリーンタイムを設定しているのだけど、毎日、このスクリーンタイムの表示が現れては制限を解除していて、ただ手間を増やすだけの習慣をもう1年くらいは続けている。毎日毎日、2時間以上はSNSをみているということだ。

毎日、だれかのおすすめするコスメの情報をブックマークして、話題のあの人の美談に感銘をうけ、あこがれの生活をする人の写真をみて背筋を正され、知り合いの考え方やどうでもいい情報を手に入れる。自分の実際の生活になにも影響を与えないものを、毎日せっせと集めては満足し、集められない日にはなにかよいものを見逃したのではないかと感じる。一通り回覧して満足したら、実際の生活に戻る。実際の生活をやるときになれば、さっきまでのだれかの情報なんて頭に残ってはいない。ライトで、ふわふわしていて、確かそうなのに全然実感のない情報は、いつのまにか消えていく。そこに費やした時間とともに。

出会えてよかったと思える情報をみつけて、考え方に変化が起きた。新しい視点を得られた。なんだか背筋が伸びた。ほっこりした。

そう思って、つぎの瞬間には、自分の生活に戻り、刺激を、癒やしをくれたコンテンツを作り出した才能ある人物の人生なんてかまいもしない。SNSに悪口を書いて知らぬだれかの人生がぐちゃぐちゃになろうが、書いた当人の人生はまったく別のところでいつもと変わらず進んでいく。よくもわるくも、実際の生活にはなにの変化も及ぼさない。なにも。でも、もう、インスタントに結果だけを知ることに、だれかの成果だけを見ることに慣れすぎて、自分の地味な生活だけに集中できなくなってしまった。過程はつまらない。

 

私たちが小学生だったころ、目の前には実際の生活しかなかった。

もやもやする気持ちを匿名で発散できる場所なんてなかったし、全部自分で実際にやってみたかった。流行りのもの、みんながもっているもの、そういうものをミーハーじゃん、と一蹴する余裕はなくて、その代わり純粋にたのしめる気持ちがあった。

私たちはあのころ、実際が十分刺激的だった。

逃れられない環境、目の前で起こることはすべて自分に関係のあることだった。毎瞬間、生活がうごいていた。経験や感覚、私自身で過程をへて得たものが、私の生活をうごかしていた。

 

私と妹は年が7つ離れている。

彼女は、SNSのない学生時代をほぼ過ごしていない。趣味の合う友達が学校ではすくなくとも、SNSで知り合いをつくっている。中学生は使えるお金も多くないから、失敗している余裕はなく、SNSでバズったコスメをたくさんもっている。彼女は、高校生になったらバイトをしたいらしい。なぜかはしらないが、せっかくなにかに集中できるときなのに、と思ってしまう。お金で買えるものなんて、インスタントだよ。でも、もう、慣れちゃったよね。そういう世界に。

 

インスタントに慣れた私たちは、どこへいくのだろう。

私たちの実際の生活のなかで、のめり込んだり、傾倒したり、突き詰めたり、そういうことがどんどん苦手になっている気がする。私たち以上に、妹たちもそうかもしれない。

よいとされる、効率的とされる、コスパのいい、見てくれのいい人生を歩むことは得意かもしれない。いい子になることも。

けれど、興奮して、どきどきして、本気で泣いて、向き合わなければいけないものに震える、そういうたのしい人生を歩むのは苦手になってしまうんじゃないか。

私たちと、妹たちの行く末、「自分ならではの」人生を歩めるだろうか。