なかゆびのゆびわ
「議論は戦いじゃないと思うけどな」とか、「すべて二項対立なわけではないんだし」とか、「極端すぎるよ」とか、わーもう、そうですはいはいそのとおり!という感じだ。
私の中での20数年の大義が失われ、私が揺らいでいる。
全然人とうまく話せない。正当化しなければいけないみたいに思っている。
けれど人から認められることをこれほどまでに大事にしている理由が見当たらない。
最近とりあえず客観的には見れているの、落ち込んだ時に「でも問題は紐解けば解決できるな」とか「意外にしょうもなくない?」とか全然思える、成長している。
けれどそれを実行できるかは別なのだ、なぜ?
私は怒るのがすきなの?泣くのがすきなの?
とりあえずあのひととは違ってめんどくさいのが嫌いなわけじゃなさそう、と思ってみたが、なんだかんだ「めんどくさいなー」と思ったときに復活している自分がいる。
けれどそんな効率的に生きたいとか思ってもいない。
物事は曖昧だ!世界は曖昧だ!それでこそいいんだ!と言っていたあの頃の自分にいってやりたい、そう思えないときもあるのだと。それも間違いではないのだと。
志望動機は比較して説明しなければならず、自分のことは相対的によく思ってもらわなければいけない面接を繰り返し、そんな日々の中で自己確信を持つなんて無理だ。
けれど逆説的に、自己確信できている人が受かる傾向もあるようにみえてしまい、そして自己確信できている人もいて、だからこそまた自分がいやになる。
感じたことが全てだ、価値観はいいけど感性をぶん殴っちゃいけない、人と意見を交わすのは全然良いけれど相手の感性をないがしろにしてはだめだ。
絶対に回ってくるのだ、情けないけどあのとき誰かに放った一言は次の瞬間の自分で、自分に声をかける誰かも同じ道を歩いているとしか思えない。
人間なんてどうしようもないと諦めるのも違くて、本気で人の話を聞ければいいのだけど、そこまで自分が至ってない。
できないことがたくさんあって、ずっと文句を言われる。そんなもんだ。そんなもんじゃないって言ってもそんなもんなのだ。その中で成長していけ、と、言われて資本主義に染まっていく。
「市場価値が人間の価値ではないのに」とそういっても、それは資本主義のはびこる世界の中での発言だから偉そうな人たちに自信を持って淘汰されてしまう。
選択肢は2つある。それでも声高らかに叫んでいくか、相手の土俵で勝って文句を言わせないか。
私はずっと後者で、だから嫌悪しながら憧れて、染まることをよしと言い聞かせて染まって完全にそっちの人間になってしまう。それを変化と呼べるだろうか。それを変化と呼んできた。
私のあこがれのあの人はどちらの選択肢も包含しているように見える。いつでもあくまで見えるだけ、だ。
それでも私のあこがれはあの人ではない、でも見えない、薄っぺらいあこがれは簡単に移り変わっていく。
強くなるために自分を晒すこと、それは思ったことを口にすることではない。
自分を晒すことは、わざわざ相手に分かりやすいように自分の弱い部分を開示することだ。
その勇気がなくちゃいけない。そんな勇気なんてない。自分がそれでも評価されるとなぜ言い切れる?
人に評価されること、どれだけ私の中で大事だったのかがよく分かる。
原因を記憶に探しても見つからず悩んでいたけどやっと分かった。見つけたときに心の中がすっと白に近い灰色に晴れた。
私は、自分のやることすべてが認められて当然だった。
そういう環境で生きてきた。「あなたと私の思うことは違うけれどやってみな」とかそういうに言われたこともなければ私が言ったこともなかった。私のやることはすべて応援してくれなきゃ、と当然に思っていたし、全部応援するという意気込みの親だった。
だから、腹が立ってしょうがない。私のことを認めてくれない世界が。人が。思い通りにならないすべてが。
世界は私を満たすためにあるわけではなく、もっと多くの人間の感情が渦巻いている。きっと、幼い私にとっては汚い世界。私のことを信じないひとが、応援してくれないひとがいるなんて、なんて汚いありえない世界。幼い私ならそう言う気がする。
私はずっと世界に過剰に期待していた。同時に、信じていた。
思い通りにするための手段が、人に好かれることだったと解釈すればすべてが繋がる。
私の大きなテーマは「うまく生きる」だった時期もあるわけで、それはすなわち「思い通りに生きるために各値を調整していく生き方」だったわけで、いまどうしても思い通りにならないことが多くて価値観の限界が来たのだと思う。
そんな私の環境に器用貧乏な性格がうまく作用していままでそれでやってこれた。
操作可能な変数をしれっと変えても勝てない場所があるのだと、というか操作不可能な変数がこれほど世界に根強くあるのかと絶望したから限界が見えた。
再構築だ。自分の。でも道筋は見えた。心が晴れた。