制服記

いつまでも不自由を愛さないでね。

ぜんぜんどらまじゃないけど

全然ドラマチックな文章にならない、まったくもって無機質で最高に人間らしい文章になる。おそらく全然まとまらない。それでもいい、書いてみる事が今の私にとって大切。そうこれは私の再構築記録。

 

やっと見つめた、私の根源は人に認められることだった。誰に、とかじゃなくてより多くの人に認められたい。承認欲求がかなり強いのだと思う。とはいえ、幼少期に無下に扱われた記憶など皆無だ。たぶん、私は人と比較して良し悪しを決める優生思想が強く、それが承認欲求をブーストしていったのだと思う。例えば、「満たされた~」と思っても上を向けばその瞬間に更に上の「満たされた~」が見つかる。それで私は今の自分は全然満たされていない、と思うのだ。当たり前を無下にする、私のやりがちな考え方。上昇志向と優生思想が強いあまりに下を見ることが嫌いで、常に上を見なければいけないと強迫観念的に自分に言い聞かせているのだと思う。

優生思想がなぜ強くなったかは定かでないけど、1つは自己確信の弱さがあると思う。自己確信がかなり弱く、自分ならできると思えど人に言えないし、自分はできると事を進めても「本当にできるのか?」と何度も自分に問うてしまう。そのたびに負けん気でどうにかしてきた。自己確信が弱いから、実績・結果がないと自分を誇れない。自分を良いものだと言えない。それが、実績や結果の人との比較で自分を捉える優生思想になったのではないかなと感じている。

 

人に認められたい私は、所与の条件の中で勝つことが最も効率的な手段だと考えて、第一の目標としてきた。学歴社会において頭の良い高校・大学に入ること、異性からの評価がカーストになる世界においてモテること、資本主義において高い年収・多くの資産・それに比例する暮らし方を手に入れること。

今まで問題がなかったのは、美容・内省や勉強と自分の嗜好が大きく外れていなかったからだ。継続努力が必要な受験勉強はなかなか身につくまで厳しかったけど、勉強のやり方はどんどん新しくなっていくから面白かったし期限付きなのもよかった、ある程度短期で結果が出るのも良かったし新しいことを知るのも楽しかった。ただ、資本主義的なものとはあまり相性がよくないみたいなのだ。もう少し正確に言えば、資本主義によって生み出される価値観とかそういうものと。目的意識とか、合理性の重視とか、そういうもの。私は目の前のことに無心で取り組む時間がすきだし、結構感性的な人間だ。私の周りには同じく感性の鋭い人間が集まっているからいくつか(もしかしたらほとんど)はわかってもらえてしまうかもしれないけど、冬の朝の匂い、夏の夜のコンビニに行かなければいけない気分、季節の匂いで一瞬で思い出される当時の感情と価値観、水の流れの前に長時間いることで浄化される心、空間への好悪、自分の感覚の読み取りの重要性、その日の自分の願望を聞くこと、そういうものを重視する人はそんなに多くないのだろう。今まで誇らしく思いながら、言いたくなかったし目を背けていたけど。だって、私はこの世界の現時点での所与の条件、資本主義のなかでも上手くやれる人間でありたかった。いま、この世は芸術の世界ではないのだ。私のアイデンティティの1つは"価値のある自分"だった。だからずっと所与の条件が苦手だと絶対言いたくなかった。自分のことを価値の出せない人間ですと表明しているようで。

 

人に言われたことは案外そのまま合っている、合っていた。私はずっと、自分の嫌な部分、弱い部分を見られないように、見られて無価値だと思われることを防ぐために、というか自分が"無価値な人物像"であってほしくなくて必死だった。自分の中で生まれてしまうであろう悲しいとか辛いとか嫌だという気持ちを整理したくなくて、"私はそれを認めたくない"という事実を認めたくなくて、人に感情的になって議論を終わらせてみたり、世間を憎んでみたり、人に賞賛の言葉を求めていた。ただ、いくら称賛されても、あなたはそのままでいいんだよ、と言われても全部虚無に見えた。そんなこと意味ないのに、それじゃ私は世の中で評価されないのに、もっとみんなに認められなきゃいけないのに、情けの言葉をかけてもらって私は何をしているんだろう。情けない。言ってくれた相手への憤りじゃない、私のことを愛して大事にしてくれない世界への憤り、その世界を変えられない自分への憤り。

 

自己確信が弱くて自己愛が強いから、自己防衛が強くなってしまう。「自分なら絶対いける」と思えないから、人からけなされる、認められないのが怖い。例えば、恋愛の仕方は人からけなされること、認められないことは怖くない。それは経験と承認が十分蓄積されたことで自己確信できたから。私はもう何を言われたってどうにか上手く恋愛できるし。まあそうは言うけど、あからさまにアプローチが減ると不安になるのは結局根本の自己確信が弱いからだと思う。私はどんな状態でも素晴らしいとは思えない。かなり世の中に迎合して生きてきたのだろう。

 

別に認められたいのがだめなわけではない。ただ、認められなければいけない、とか、全員に認められなければならない、というのは中々苦しい。でも私は私の周りの人に認められればいいとかそんな風ではない。もちろん認めてほしいけど、自分の影響範囲を増やしていくのが結構面白いんだと思う。恋愛とか色欲はそのための簡単な手段だった。いやでも認められたいと言うか、私の世界を人に届けたい。私の中のユートピアを。自分の世界を広げていきたい。私のつくる素晴らしい世界でみんなを救ってあげたい。ここにこれればいいやと思ってほしい、そんな場所でありたい。

 

「私はそんなに弱くないよ」と自分に言ってあげたい。

私はそんなに弱くない。人の言葉から全部守ってあげないといけないほど弱くない。完璧じゃなくて欠点もあるけど、人間らしくて汚いし情けないけど私はそこまで過保護にせずとも生きられる。自分のアイデンティティは"価値の出せる自分"でなくていい、そして"感情"でなくてもいい。

もっと楽になっていいはずだ。私のアイデンティティは私であることなのだろう、きっと。私という主体があること、それが私のアイデンティティなんだと思う。多分ずっと変わっていくけど、ゆく河の流れ絶えずしてしかももとの水にあらずというわけなんだろう。自分という主体であること、それだけを拠り所とする、そんな試みをする。あとは感性。私が感じることは誰に偽物と言われようと本物だし鋭いものだと思う。そうすると、プライドは目標から生まれてくるんだろうか。私の目標はなんだろう。私であること、だろうか。私として生きること、私としてどうあるかということ、そこにプライドを持つ。なるほど、やってみよう。

 

 

後半は書きながら考えたので大分雑。それでいい。

別にもうだめな私を隠す必要も、自分を過剰に守る必要もない。

自分で自分の素直な欲求と感性に向かうこと、そしてそこに言い訳をしないこと。

 

なかゆびのゆびわ

「議論は戦いじゃないと思うけどな」とか、「すべて二項対立なわけではないんだし」とか、「極端すぎるよ」とか、わーもう、そうですはいはいそのとおり!という感じだ。

私の中での20数年の大義が失われ、私が揺らいでいる。

全然人とうまく話せない。正当化しなければいけないみたいに思っている。

けれど人から認められることをこれほどまでに大事にしている理由が見当たらない。

 

最近とりあえず客観的には見れているの、落ち込んだ時に「でも問題は紐解けば解決できるな」とか「意外にしょうもなくない?」とか全然思える、成長している。

けれどそれを実行できるかは別なのだ、なぜ?

 

私は怒るのがすきなの?泣くのがすきなの?

とりあえずあのひととは違ってめんどくさいのが嫌いなわけじゃなさそう、と思ってみたが、なんだかんだ「めんどくさいなー」と思ったときに復活している自分がいる。

けれどそんな効率的に生きたいとか思ってもいない。

 

物事は曖昧だ!世界は曖昧だ!それでこそいいんだ!と言っていたあの頃の自分にいってやりたい、そう思えないときもあるのだと。それも間違いではないのだと。

志望動機は比較して説明しなければならず、自分のことは相対的によく思ってもらわなければいけない面接を繰り返し、そんな日々の中で自己確信を持つなんて無理だ。

けれど逆説的に、自己確信できている人が受かる傾向もあるようにみえてしまい、そして自己確信できている人もいて、だからこそまた自分がいやになる。

 

 

感じたことが全てだ、価値観はいいけど感性をぶん殴っちゃいけない、人と意見を交わすのは全然良いけれど相手の感性をないがしろにしてはだめだ。

絶対に回ってくるのだ、情けないけどあのとき誰かに放った一言は次の瞬間の自分で、自分に声をかける誰かも同じ道を歩いているとしか思えない。

人間なんてどうしようもないと諦めるのも違くて、本気で人の話を聞ければいいのだけど、そこまで自分が至ってない。

 

できないことがたくさんあって、ずっと文句を言われる。そんなもんだ。そんなもんじゃないって言ってもそんなもんなのだ。その中で成長していけ、と、言われて資本主義に染まっていく。

 

「市場価値が人間の価値ではないのに」とそういっても、それは資本主義のはびこる世界の中での発言だから偉そうな人たちに自信を持って淘汰されてしまう。

選択肢は2つある。それでも声高らかに叫んでいくか、相手の土俵で勝って文句を言わせないか。

私はずっと後者で、だから嫌悪しながら憧れて、染まることをよしと言い聞かせて染まって完全にそっちの人間になってしまう。それを変化と呼べるだろうか。それを変化と呼んできた。

 

私のあこがれのあの人はどちらの選択肢も包含しているように見える。いつでもあくまで見えるだけ、だ。

それでも私のあこがれはあの人ではない、でも見えない、薄っぺらいあこがれは簡単に移り変わっていく。

 

強くなるために自分を晒すこと、それは思ったことを口にすることではない。

自分を晒すことは、わざわざ相手に分かりやすいように自分の弱い部分を開示することだ。

その勇気がなくちゃいけない。そんな勇気なんてない。自分がそれでも評価されるとなぜ言い切れる?

 

人に評価されること、どれだけ私の中で大事だったのかがよく分かる。

原因を記憶に探しても見つからず悩んでいたけどやっと分かった。見つけたときに心の中がすっと白に近い灰色に晴れた。

私は、自分のやることすべてが認められて当然だった。

そういう環境で生きてきた。「あなたと私の思うことは違うけれどやってみな」とかそういうに言われたこともなければ私が言ったこともなかった。私のやることはすべて応援してくれなきゃ、と当然に思っていたし、全部応援するという意気込みの親だった。

だから、腹が立ってしょうがない。私のことを認めてくれない世界が。人が。思い通りにならないすべてが。

世界は私を満たすためにあるわけではなく、もっと多くの人間の感情が渦巻いている。きっと、幼い私にとっては汚い世界。私のことを信じないひとが、応援してくれないひとがいるなんて、なんて汚いありえない世界。幼い私ならそう言う気がする。

私はずっと世界に過剰に期待していた。同時に、信じていた。

 

思い通りにするための手段が、人に好かれることだったと解釈すればすべてが繋がる。

私の大きなテーマは「うまく生きる」だった時期もあるわけで、それはすなわち「思い通りに生きるために各値を調整していく生き方」だったわけで、いまどうしても思い通りにならないことが多くて価値観の限界が来たのだと思う。

 

そんな私の環境に器用貧乏な性格がうまく作用していままでそれでやってこれた。

操作可能な変数をしれっと変えても勝てない場所があるのだと、というか操作不可能な変数がこれほど世界に根強くあるのかと絶望したから限界が見えた。

 

再構築だ。自分の。でも道筋は見えた。心が晴れた。

なつのようだね

 

ねえ先輩、助けてよ、ってずっと助けを求めてる。

私のだいすきなあのひとは、私のあこがれで拠り所、一つの世界。

 

最近ちょっと泣かないようになったの、それでなんとなく嗜好品に頼ってる。

これを大人になっただとか、対処法を覚えるだとか表現するんだろうか。

確かに、割と恒常でいられていて正解な気はするんだけどさあ。

 

いまだに弱い、だって友達一人のことでこんなに悩んでしまう。

憧れるから、知っているから、同級生って厄介、どうしてもライバルだ。

 

先輩って便利な言葉で、特に大学の先輩ってめちゃくちゃ便利なの。

仕事みたいに怒られたりする必要ないの、対等なのに明らかにこの数年の差は大きい。

これが若いってことだろう、1年の重みが違う。ずっとこうありたいけど。

 

先輩、って言えば諦めたり頼ったり甘えられる。

私のだいすきなあのひとは、自分の世界があってそれはとても強固な世界に見える。

たぶんそんなことはない、なんだかんだひとに影響されて広い世界に影響されて彼の世界。わかっているけど理想を投影したいのだ、彼に。

 

おそろい、それは過去の話になってしまっていると思うからおそろい"だった"たばこの銘柄とか、彼の適当な一言一言、そういうものに救われていて、救われたい。

生き方なんてわからない、自分にとっての正解すらわからないのに彼はわかってるみたいに生きていてだいすき。揺れても彼らしい選択をする、というか彼がした選択はすべて正解に見える。

 

彼は自分のことを理解していて、自分の道を歩いていて、でも他人のこと否定しないで、けど思ったことは言う人だ。たまに聞かせてくれる。

誰にも媚びていなくて、うまく生きてる。

 

ちゃんと自分の人生を生きたいと思えるようになったから、悲しいことがあってもちゃんといつもに戻って頑張りたいと思う。けども戻るときには、道標が必要で、彼がそれ。

 

彼にとってもなんでもない全てが愛しくて思い出すと泣けるくらいにはかっこよくて、全部ずるい。でも絶対彼は気づいていない、知らないけどたぶん気づいてくれていない。

たぶん恋だし、たぶんただの憧れだし、ずっとなんてないだろう。

ただ、いまは強烈に彼が輝いて見えて眩しくて、迷うたびいつもその光に行き着く。

 

知ったら絶対に違うってどこかでわかっている、だから知りたいっていうのはもうちょっとだけ知りたい、であって、全部知りたい、ではない。

だからこれでいいし近づきすぎることもないんだろう。私は理想に恋して憧れて、アホくさいけど、光があまりに強い。眩しくて美しすぎる。

 

あの瞬間が、あのひとことが、あの文章が、あの動作が頭に残って、思い出すと笑顔になってしまうほどで、なのにそんなひとにダサいところや黒歴史を見られてばかりでちょっと自分がいやになるし情けないし恥ずかしいんだけど、それでも許されていて、たぶんどうでもよくて、けれど許されているとかどうでもよくて愛されたい。

なんでもいいからかわいいねって思われたい。その分だけ愛したい。

ずっとずっとあなたのことすきでいたい。

 

 

 

「いつまでも不自由を愛さないでね」

我ながらいい言葉、そして結構厳しい。

 

私はもともとかなり涙もろく、泣きやすいタイプだ。

父親も母親もだけれど、特に母親。妹も例にもれず泣きやすく、感動もののドラマや映画でわかりやすくみんな泣くような家族。

だから泣くことになんの抵抗もなくて、「人前で泣きたくない」とか全く思ったことがないどころか、自分が泣いてない場面で泣いているひとをみると「いいなあ」と思う。なにが「いいなあ」なのかというと、泣けるほどの真剣さとか、素直に感動できてしまう純情さとか、周りに気を使わず泣ける鈍感さとか。場面によっていろいろだ。

 

定期的に泣く癖がある、というか、定期的に自分に絶望し世界を嫌悪し周りに嫉妬する時期がある。

近頃だいぶ回数が減ってきたのは、幾分か客観性が身についたからといった成長もあるし、忙しいから、とか恋人とだいぶ長い付き合いになるなかで安心感が増したから、みたいな一時的な状況もある。

 

なぜ泣くのかというと、上に書いたとおりなのだけど、自分の甘さと情けなさに腹が立ち、あれこれ言ってくる世界が嫌いになり、自分の弱い部分をなんなくこなす人たちが羨ましくて仕方なくなる。うまく言語化できないけど、簡単に言えば感情面でのキャパシティを超える量の情報やら言動を受けたときだろう。

全部、解決策は分かっていて、やればいいのだ。やるのみ。後悔、絶望、嫌悪、嫉妬、そんなものは私の何も変えてくれない。

けれどどうしてもつらくて泣いてしまうのは、折り合いがつかないからだ。

期待に応えたい自分、誰の言うことも聞きたくない自分、好き勝手生きて暴れていきたい自分、人の言うことを聞いて素直に成功に向かいたい自分、成功して現世での声を大きくしたい自分、テンプレの成功になんてのせられてたまるかと思う自分、なにがなんでもやってやるという自分、すべてどうでもいいから楽しく生きたいと願う自分。

折り合いがつかない。全部正解で曖昧だ。私はそんなに簡単じゃない。世の中に対して一つの答えをもてる程素直じゃないけど素直になれたらいいとは思う。

 

本当は、すきなひととずっと一緒にゆっくりしながらほどほどに頑張れればいい。

でも本当は、毎日しんどいって思いながら野心を燃やして頑張りたい。

「どっちもとればいいじゃん」って分かってるけど、そのために頑張るのはゆっくりしているうちに入らなくないか?どっちも叶えられる手段があるのにそれにすら文句をいう私は究極にわがままなのかもしれないな。

 

今までの人生が嫌になる。なんであんな呑気に生きてしまったんだろう、なぜやりたいことをやらなかったのだろう。

「もう自分の今までの道を正解にするしかないじゃん」って言ったひとが「でも大体の人は俺に追いつけないと思う、こんな経験している人いないし」って経験を誇る。ああもう私はどうすればいいんだ。誰の話も聞きたくない。いやでもすきなひとの言うこと聞いて生きちゃいたい。でもでも私のすきなひとは「その人らしいから」すきなのであって、「その人だから」すきなのではない。

ポジショントークじゃないトークなんてないから、みんな自分の道が正解だって言い切る。それが気持ち悪くて悲しくて腹立たしい。うるさいな。じゃあ私の正解があるって言いたいなら黙っててよ。でも、私だけの思考で進んでいけるほど強くも自信もなくて嫌になるな。

たとえば、ビジネスで成功している人はえらそうに私に教えてくれるけど、たぶん恋愛だったら私のほうが上。ただ、恋愛はビジネスで役に立たないだけ。それだけなのに、いやそれだけだから偉そうにいうんだろうけど、それだけじゃん。

ネオリベラリズムなんてだいっきらいだ、選民思想なんてだいきらい。選ばれたひとでありたかったけど、誰も置き去りにしたくなかった。客観的に見ることは諦めることじゃない。

 

どうせこんな文句垂れたっていつかは言われたことが正解だって気づきそうで腹が立つ。誰にも会いたくないし、さみしくてしょうがない。頑張りたいけど、頑張りたくない。でもどうせ頑張るんだしなあ、全部捨ててもいいかなあ。でもなあ、テンプレにのりたくないのよね、でもテンプレに載ったほうが早そう。は~。友達はどんどん減っていきそうだし、いやになっちゃうなあ、の備忘録。

 

 

生活、つまり1K

生活力が皆無に等しい私が1人暮らしをはじめた。もう2年前の話か。

望んだ大学に入った私が晴れた気持ちだけで新生活を始められなかったのはきっと1人暮らしを始めたからだ。不安だった。近くに誰もいない、誰も助けてくれない、仲いい友達もすぐには会えない、ホームシックにかかったことのない私も家族がいないことの孤独を痛感することになった。

死ぬほど泣いた。毎晩毎晩夜が深くなるにつれてどこからか湧き上がる劣等感、無力感、自己嫌悪、孤独。すきな音楽も助けてくれなくて、友人に電話しても次の日にはまた同じように沈んでいた。

人間の情けないところを見た。私は酒癖が悪いし、男はすぐ手を出してくるし、憧れのひとは優しいし、すきな人は思ったより弱い。信じていたのに、なんて泣き寝入りするよりも強く生きていこうと思った。そのかわりに優しくて穏やかな自分が削られたんだろう。

朝の明るい日差しにときめいた。泣いて疲れて、自己嫌悪して疲れて、感傷に浸って疲れて、沈むように寝ても、起きれば明るい日差しがどうにか私を歩かせる。まるで昨晩の鬱が嘘のようにしゃんといれる朝も、泣いた痕跡がひどい目の腫れになってなんとなくちょっと暗くてでも爽やかな朝もあった。

この1Kははじめての私だけのシェルターだった。私だけが知っていることが必然的に増えるこのシェルター。誰にも言えないことなどあまりないけれど、すべてを知っているのは明らかに私だけだった。それと、この部屋。

明るいね、だとか、キラキラしてるね、だとか言われた裏にある涙や自己嫌悪を知っているのはこの部屋だけ。酒癖悪いんだよね、とへらへらする私が幾度の失敗をし、幾度の甘い記憶をつくっているかを知っているのも。私の都合のいい改変も、汚い気持ちも、自分のために流した涙も、この部屋と私だけの秘密。ひとが嫌いになったらここに戻ればよかった、寂しくなったらここに呼べばよかった、どんな疲れもとりあえず帰って寝れば回復できた、私に何があろうと私を責めないで守ってくれた。

そんな部屋ともあと3日で別れる。

四角くて、均質で、無機質で冷たい。小さくて、穏やかで、日射しがさして優しい。2年なんて一瞬だ。ただこの一瞬は、とても汚くて苦しくてでも何度も挑戦した、忘れられない2年間、はたまた青春。この部屋はまた誰かの生活を見守って、私は別の部屋と歩き出す。

恋に沿える音楽のすゝめ

私の音楽遍歴はすきだった男たちの音楽の好みの寄せ集めだ。

いつも恋に音楽がつきまとう。

ロックをすきになったのも最初に本気ですきになったひとの影響。憧れのひとと近づけた日に教えてもらった曲、すきなひとが私たちの関係性を当てはめた曲、滲み出る頭のよさに惹かれたひとがすきだと言っていた曲。

空気に匂いがあるように、音楽には感情が付きまとう。去年の春のわくわく、毎日泣いたあのころの苦しさ、あの夏の夜の静かなときめき、ずっと鬱々しく自信がなかった数か月。忘れていたすべてが一瞬でぶわっとフラッシュバックする。当時の自分を懐かしく思い、時に頑張ったねと褒めたり、時に幸せだったなあと感慨深げになる。

恋愛は人生の肥やし程度でいい。そうは言えど肥やしどころかメインデッシュにしてしまいそうになるのは、属人的な愛情深さによるものだけでなく音楽をたのしむためでもあるのかもしれない。なんの得にもならないような男女関係もすきなのはなぜかと考えると、振り返りたのしむため、という結論が出た。私的恋愛観としては、美化して甘いところだけ残してずっと鑑賞するために恋愛的な諸事をしているというところがある。しかし、いくら反芻しても記憶は薄れてしまう、当時は覚えていたはずのことも思い出せなく朧気になり、ことさら感情は気にも留めなくなってしまう。そこで、音楽だ。誰それが言っていた曲、まるで私たちを歌ったような曲。その音楽自体につながりを感じてもいい。自分の好みの変遷に恋愛を感じるのもいい。メロディーやフレーズできゅっとなるのもいい。感傷に浸りたい夜のBGMにしてもいい。

過去の恋愛は取り返せない。あの頃の2人の関係はあの頃の2人だけのもの。きっといまの私とあの人でも無理なのだ。思い出すだけではずかしくなる恋も、憧憬と下心が半分ずつの関係も、一晩の記憶さえも、もう手に入らない。いまあるものも、少ししたら取り返せない。取り返すことも、ずっと鮮やかに反芻することもかなわないなら、音楽に閉じ込めておけばいい。つらくてしょうがない相手や、だいすきなあのひとを思いながら何度も何度も聞いた曲は全部守ってくれる。私の大切なきらきらしたものを優しく吸収してくれて、歌詞と一緒に何度でも再現してくれるのだ。会えないひとに会いたいとき、ふと思い出したとき、愛が強くなったとき、1人で聴いたらたぶん胸がぎゅっとなる、そんな音楽を増やしていく。こうして人生をたのしくゆるくきらきらさせていく。

 

なつのひるのでーと、にねんまえのかきごおり

 

私が思っているより、いつも世界は単純だ。

私はどうも深読みしてしまうタイプで、女の子の扱いではだいたいうまくいくんだけど、男の子はてんでだめ。前日に泣きそうになりながら推測した相手の思案は1%もかすっちゃいない。「そこまで深く考えてないよ」といつも言われてしまう。

 

彼は私がそんな風に考えていたことすらしらない。いつもどおり遅刻なのはわかっていたけど、炎天下の中1時間の遅刻はひどい。けれど恋人じゃないうちなら大体なんでも許せる。かわいい。

 

目的だったかき氷屋さんは並んでいたのでチケットを発券した。2年前は場所も違ったしこんなにハイテクじゃなかったな。ただ、50分も待つらしい。どっかで涼んでて、と言われたので駅から5分程度のカフェを見つけて位置情報を送る。しばらくすると彼が来て「ごめん~」と軽く1回だけ言った。この人は本当に言葉にしないと言うか言葉にできないタイプなのだろうなあと思う。あれだけメッセージで謝っていて私が笑っちゃうくらいだったのに、かわいいなあ。

とっかかりやすい就活の話をしているうちにかき氷屋さんの順番が来て、う~んまあどうにかなるかといって少し遅れて席を立つ。コーヒーを飲む間、私の同期の女の子、彼が打ち上げで話していて私が辛くなっていた子だけど、の話も出たけど、慎重に探った結果別にそれほど関わりがなさそうなのでこの話は割愛。遅れた分、と代金を払ってくれた。さらっと金払いがいいのもすきだ。

 

かき氷屋さんに行くと、他のお客さんを先に入れてしまったからとちょっと待たされる。待ち時間で腰掛ける席がちょっと近くて嬉しくなってしまう。だいぶ会話も解れてきて、いつも遠慮していたようなことも聞ける。彼も、割と真剣に話してくれる。私たちはなんだか、ちょっとずつ相手を信頼している。というか、私がか。毎回味わっている少しずつ距離の縮まる感覚を思い出した。かき氷屋さんでは今流行りの生のフルーツソースを掛けたものを食べて、その間にどうでもいいようなことを話した。バイトとかそういう話をしていて、彼が相当、普通の社会人くらい稼いでいるみたいな話になって、「先輩にパパ活したいです~」というと、「して~」って返ってきたので普通にうれしくなった。金銭授受があれば、仕事として成立するんではないかな?どうかな?

 

そのあと解散の予定だったんだけど、どうする?みたいな話になったのでとりあえず延長してみた。夜までは長引かせないと決めていたので、夕方くらいまでという暗黙の想定で、行きたかったところに連れていった。道すがら、私の言ったことについて話したり彼について聞いたんだけど、「え~秘密、多くは語らないタイプだから」と言われてなんだそれと思いながら歩いた。みなとみらいの新しくできた商業施設。あそこらへんの商業施設は中身がスカスカ、なんて話をしながら例にもれず中身がスカスカの新しい商業施設を一通り巡った。酒は飲まないと決めていたのだけど、締めに困ってビールを野外で飲んだ。適当に目の前にいる犬をかわいいね~と眺めていて、私がふと「いいなあ犬は、お手すればかわいがられて」と口に出した。私は何も考えずにこんなことをいうんだけど、大体みんな同意したりなにそれと一笑する。彼といえば真顔で手を出してきて、私も真顔でお手をした。左だからおかわりか。彼が真顔過ぎて「全然喜んでない~!」と文句を言ってみたけど、こういうところだ、たぶん、私が彼をすきなのは。こういうどうでもいいところで、予想はつくけど、でも意外にみんながやらない反応をする。思考がどこか似ているのだろうか、そうだとうれしいな。こういう私にドンピシャな反応とか空気とか、そういうものがだいすきで魅力的だと思う。彼はいつもそんな感じ。

 

お礼のメッセージはまた彼からだった。メッセージのやり取りは意外に続いて、やっぱり仲良くなっている気がする。写真を送ってみたり、どうでもいい会話を続けたり、見つけたツイートを送ってくれたり。いつもよりかわいくて、次は昼のデートじゃなくて銭湯になりそう。夜は危ないからなあ、気を引き締めないとなあと思いつつ、彼の返事がかわいい。

 

まだ連絡は一応続いている。今日は彼の誕生日だ。すっかり忘れていた。昨日言っておけばよかった。まあいいか。渡しそびれたプレゼントとともに、次回言おう。