制服記

いつまでも不自由を愛さないでね。

いつもめがさめるようなかんかくといっしょに

 

 

「、、なんでもないっ」

そう、そうやってちょっと威勢のいい、聞くことをためらうような言い切りの「なんでもない」には、悪いニュースがついてくることを知っている。

それでも私は聞かなきゃならない。いつか裏切られてしまうかも、と怯えるほうがよっぽど怖いのだ。

「生きづらいな、と思って」

とっさに考えたことは明らかに私の本音だった。おまえが言うか?

 

「そうやって、周りの人のことをいちいち気遣って、必要なのは分かってるけど、めんどくさすぎる、」

「それって私がそう振る舞うことであなたに危害を与えるからってこと?それとも、あなたが世の中で生きていくうえでってこと?」

「そう、俺が生きていくうえで」

ああよかった。前者を答えられていたら、一瞬で泣きながら怒ってしまうところだった。

 

「生きづらい」なんて、彼の口から聞くとは思わなかった。

「生きづらい」なんて、言いたくなかった。だって、そうやって逃げてしまいたい項目が、恐ろしくたくさんある。それで逃げられたら、厭世の志向がもう少し強かったら、どんなに楽だっただろうか。

 

私はあなたに反対のことを思う。

想像力がなくて楽そうでいいよね。だって、その言葉で、私の生き方を「めんどくさい」で片付けるその言葉で、私を傷つけるかもしれないとか考えなくていいんでしょう。そうやって、自分の辛さを、気にせずストレートに口に出せるんでしょう。長所と短所は紙一重。だなんて分かっているように言っても、何も分かってないじゃない。魂のこもっていない言葉で、知ったかぶりをするなんて、最高につまらない。

「ひねくれすぎだろ~」「なんで怒ってるの笑」そんな風に、私自身の葛藤を、辛さを、軽い言葉とその時の感情で、簡単に踏めるなんて、踏んでいることなんて気づかないで、このままずっと気づかないで、そんな自分を否定しないで済むんでしょう。

からしたら、あなたの方が100倍くらい生きやすい。うまくいっている中でうまくいかないものを1つ見つけて「生きづらい」なんて羨ましい。

 

もっている人ともっていない人、そんな最悪な二項が最近自然と思われる。

弱者と強者。繊細と鈍感。なにがそれを左右しているのかは知らない。

けど、弱者のいくつもの苦痛を「めんどくさいから見ない」ひとを、弱者の極論を「なんでそんな考え方になるんだろう。理解できない。」と一蹴するひとを、自分と同じだと思えない。

「めんどくさいものは見ない」ひとたちの、何が多様性だ。

多様性なんて、死ぬほどめんどくさいものだ。社会は分類が2つしかなかったジェンダーさえ受け入れられなかったのに、何がジェンダーダイバーシティだ。

どうせ、自分と50%同じで50%違うひとまでしか仲間だと見なさないくせに綺麗事を言いやがって。みんな気づいているでしょう、本当にバックグラウンドが違うひとを、理解することは、そういうひとに寄り添うことはできないってことに。しゃらくせえんだよ。

「恵まれてる」と口にするひとの何割が、真の意味で「恵まれてる」と思っている?

何割が、運次第で自分も自分が忌避する人間を作る環境にいたかもしれないと思っている?自分が厭う人間に自分がなり得たかもしれないこと、本当にそれはあり得ること、「自分は絶対ならない」なんて言えないことを、誰が理解している?

ただただ自分の状況や持ち物に陶酔するための「恵まれてる」だってことは分かっているし、別にどんな言葉を使ってもいいけれど。近代の貴族の美徳は一切見えなくて、悲しくなる。これが、これから世界の行く末か。

 

私は自分の何が嫌いなのか分からない。

エゴなのか、自我なのか、ナルシシズムなのか、自己憐憫なのか、レッテルに甘んじるところか、人間くさくて自分の美徳で許せない部分なのか。

簡単に口に出すひとが、思考や思惑が透けて見えるひとが、自分を開き直っているひとが、執着がみえるひとが、嫌で仕方ない。人間らしくていいね、だなんて、そうなんだろうけど、そう受け止められればいいけど。

分かっているつもりだ。弱いから、辛いから、口に出すし見栄を張るし、そういう状態になるときはほとんどのひとに必然だろう。それでも、みんなしょうもない人間だと言うなら、ならばみんな優しくしたらいいのに。表面上だけでも、しょうがないねって言っているフリしてくれれば。そんなことしたら、私みたいな訳の分からない人間が出来上がるだけか。

これだけ嫌だ嫌だと言っていても、言っているこの文章ですら、他人から見たら上記の要素をたっぷり含んだ文章なんだろう。ああ嫌だ。こうやって自分を縛っていくんだ。ああはありたくない、そんなことをいったら人間できなくなってしまう。出家するなり、一人で生きるなりしなければいけない。SNSなんてのは、一人になるために一番いらないものだから、だから私に向いていない。裏垢も、ストーリーズも見たくない。知りたくも見たくもない、強者の思想を振りまくみんなを見たくない、恋人に染まるあの子も、私に影響されるひとも、みたくない。いいのかそれで。ねえ、いいんですかそれで。「生き方の凝りはその人の自己防衛の結果である。」そんな言葉に今日出会ったのだった。

 

正義なんてない。正義なんて振りかざすのが最悪だ。

ああはならない、ああならない自分はよい。あれは最悪、それをしないだけ私のほうが優れている。

結局みんなその思想だ。私もか?私もだよ。

でも分からなくなってきた。「ああはならないから自分はよい」のではなくて、「ああいう姿でありたくない、目指す方向としてあれはない。」と判断した時にも嫌悪感は生じるからだ。その嫌悪感すら飲み込んで、「ああそれも人間だよな、私の嫌悪も彼女の嫌悪も彼の怠惰も自己正当も、すべて人間であるゆえにしょうがない」。私の理想はこれだろう。

例え自分がその理想を叶えたとして、それでも世間一般のムードがここに至ることは相当先だろう。もっと、すべてのひとがこういう思いをして、こういう思いを声高らかにいうひとが出てきて、格差間の戦いが起きて、どちらかが勝って、幸運にも繊細なひとが勝てば世間のムードになるだろうか。それとも、世界はそこまで素直でもアホでもないから、言えばもっているひとたちが、もたないひとをうまいやり方で利益を保持しながら懐柔するだろうか。どちらにせよ、私の理想は、現世では浸透させるのは夢物語だと、そんな風になる。

そして、「私が理想を叶えるのは勝手だけども」、「俺ら/私達は知らない」。

そうやって、受け入れる人が受け入れていくんだろう。それが、人々の拠り所になってある程度の人的資本は手に入るだろうが、現世的な幸せを求めるとしたらなかなか厳しい戦いになるのだ。きっと、何度も、透明な水をひとに渡しては泥水で返され、必死で濾過しては渡し、泥水で返されるんだろう。濾過の大変さを知らず、分かろうともしないひとたちに、好かれ、て? それで、満足できるだろうか。それって幸せだろうか。幸せを求めているのだろうか。いや、私は、私の思い通りにすることが大事だったから、それでは幸福と言えないんだろう。

 

追いつかなきゃいけない、私も頑張らなきゃいけない。

やろうと思っていたことを先輩に先越され、自分はこれだから、と思う。

自分の進みたい道を、迷いながらも確かに進んでいる友人達が羨ましい。

負ける気はしない、でもそれは幻想でこのまま置いていかれてしまうのかもしれない。

焦る、焦る、焦る。私だけが置いていかれてしまう。

そういう思考が私をさらに置いていく。

 

ああ、私に、自我を捨てるだけの陽気さを、全てを飲み込むだけの適当さと愛を。

いつまでもこどもでいてよね

小悪魔って、無邪気って、こどもっぽいってことだ。

よく考えてなくて、気分屋で、自分に正直であること。難しい。

 

小さな裏切りばかりの世界だ。

「小さな裏切りを経験していくことが大人になるっていうことだ」って文章最近見たの。まあそんな感じがする。

 

私の理想100%の人なんていないし、私のあこがれの人はあこがれの人を通してみる私の理想。

信頼している友達や先輩にも手を出されるし、酔ったらスキンシップとられるのもうんざり。

なよなよしてたら「そんなんじゃ」と言われて、救ってくれるわけでもない人に「弱みを見せなよ」って言われることにナルシシズムしか感じない。

 

いま私は大人になりかけの人間である。

確立しているはずの「自己」にこだわってしまうし、私のことなんて何もわかってなかったし、甘ったれてるこどもである。

ある程度のことは自分でやって、1人で暮らして、人に褒められなくてもそれなり楽しく生きてる大人でもある。

 

大人だから、「ねえ私こんなところがあるの、それでもいいかなあ」って泣きついてももう浅ましく見られるだけだから、自分のこと俯瞰したように話して相手から批判されないように取り繕わなきゃいけないの。

失恋したら人前で泣いて、悲しいことがあったら酔って泣いて、そんなことができる女の子を軽蔑して、そして、本当は彼女たちが強いことをどこかで知っている。

自分の悪いところを人に指摘されないように必死だなんて、強く見られようだなんて、なんて弱いんだろう。

 

信じたいから信じたら「信じるからだよ」って言われるのも分かる、「みんな頑張っているんだから」それはそう。

それでも私のなかの何かがずっと拒否している。信じたい、褒められたい、認められたい、愛されたい、必要とされたい。まだ幼い私がずっと言っている。

 

恋人にすべて頼りたい、と思う気持ちがとても良く分かった。

だって、100%の弱みを見せたい相手なんて、それでも認めてくれる相手なんてそうそういないのだ。

弱みを見せるのははずかしいし、それで分かったようにアドバイスされるのはもう飽きた。生きていたらそんなことばかりなのだ。いつから、私たちは、計算された言葉を話すようになった?悩みを話したら聞いてもいないアドバイスをくれる、選択に迷ったら相手なりの正解を提示される。こう動くように、こうやってほしいんだろうから、そんなの勝手なエゴだ。といいつつ現在進行系でそんなことをやっているから最悪だよ。

 

きれいなものだけみたいなんて一切思わない。

汚いものを知って、認めて、内包して、それでも前を向いている人にずっとなりたい。

多分そういう人はかなり無責任で、無責任にやさしいと思う。そういう人と一緒にいたら、今の自分なら確実にだめになる。

適当でありたいなあ、正義を持ち出したらおわりだ。正義があるからつまんないっていっていたひとに仕事上の正義をめちゃくちゃ押し付けられて最悪。つまんねえよそれじゃ。

誰も裁かない、自分も、相手も。

多分それは1番無責任、1番自己責任、でも自分に対しては誰よりも覚悟をもっている。

そうありたい。自分のことだけを、自我に執着せず、雑に、適当に、効率よく。そんな人間にずっと憧れているこの3年間だ。

 

 

もったいないでいきたかった

シンプルってそんなに正しいか?

 

ビジネス書だとか指南書だとかそういう類はどの本を見ても、シンプル、シンプル、言っていることは全部シンプル。

問題をとくときには複雑なままでは解けないよ、という当たり前の話か。

ただし、複雑な感情はどこにいくんだ?感情はいつだって複雑だ。

 

感情がノイズだという。人間という生物がそれ自身の社会の発達についていけていないから生じるものだという。

はあ、そんなものか?私が21年大事にしてきたものはノイズか。

確かに、感情がアイデンティティだったら、同じ感情を抱く友人は私そのものだ。だから私は「わかる~」と言われるのが嫌いなのだろうけど。同じ場面に遭遇したとして、同じ感情をいつでも抱いてくれる人間はいないから、それがアイデンティティとしてもいいけど、やっぱりそうなると感情っていうか感情を発生させるバイアスにこそアイデンティティがあって、バイアスとは経験から生まれる気がする。

じゃあ、感性がアイデンティティだとしよう。そりゃあ中学生の頃の、下北沢とWEGOを同時に愛していた感性はてんで理解できないけど、あの頃があって今の私のセンスがあるからやっぱり私のアイデンティティに近いと思った。でもそれって、感性そのものが変化するということを意味していて、変化させているのはやっぱり感性に従ったり、従わなかったり、誰かの感性を真似した、経験なのではないか。経験じゃん。生きてきた時間をどう使ったか、それがアイデンティティか?

 

それなら生まれたばかりのこどもはどうなる?

彼らは経験など持っていない。もっと年を経たとしても3歳くらいまでの経験は、誰かに加護され生きてきた、とくくれば全員同じだ。それでも性格や感じ方や嗜好に違いが出る。そうなると遺伝子なのだろうか。そうすると双子は同じ性格なわけで、結局遺伝的要因×環境的要因の掛け合わさったものがアイデンティティであるというなんともつまらない話になった。最悪だ。真実がただしいことを自分の思考で証明することほど私のアイデンティティが傷つくことはない。私のアイデンティティとは、思考方法とか感性とか感情そのものだと思っていたから、誰かと、ましてや世間と同じなんてまっぴらごめんなの。そう思ってたのよ。

 

同じ遺伝と同じ環境を持ってれば同じ人間なのかよ。いやそうか。まあ絶対ありえないわけだけど。双子は相当似うるんだろうなあ。でも全く同じにはならないんだろう。そもそも遺伝子が全く同じにはならない時点で。

 

結局親と自分の環境を愛するしかなくなってしまう。誰からも自由でいたいのに、自分を肯定するには親や自分の環境を肯定しなければならない。自由でいたいのに。ああそうか、思考や感情を拠り所にしていたのは、自分という存在を自分だけで成立させたかったからだ。

多分私が地に足がついていないのはそういうわけだ。自分を成り立たせてきたものを、自分の元を、軽視している、軽視したいから。だから、諦観したふりをしてもずっと子供っぽいところがあって、リアルに弱い。リアルを無視しているから、リアルに弱い。このまえ付き合いの長い友だちに言われた「どこか行っちゃいそうだよね」って、あっていたのかもしれない。なんのことかわからなかったけどそういうことなのかもしれない。

でもそれでも、地に足がついた人間になりたいと思えない。リアルを見て、自分という存在の脆弱さと社会性を理解して、それでも自由であらなきゃいけない。もう自分の脆弱さと社会性を理解した時点で、地に足がついてしまいそうだ。

重く、べたべたしていて、つまらない。守るしかない。そんな人間に絶対ならないって思うのは、母親は私にとって反面教師なのだろうか。

幸せを目指すことだけが幸せかよ、なんて悪態ついてたけど一番幸せを求めているのは自分かもしれない。

なかなか本気で笑わない、父親への嫌味をよく言う母を、私はどう捉えてきたのだろう。私は、わがままでいいし、いい人なんて思われなくていいからすきなことしたい、ってそういう観念がずっとあった気もする。過度に家族に要因を求めるのは良くない気もするけど。私は、母親に幸せになってほしかったんじゃないか。綺麗事を言えばそうなるんじゃないか。若いころのやんちゃな彼女の話を聞くのがすきだった。だから私は彼女と恋愛について話をしたいのかもしれない。母親の笑っている顔が見たかったのかもしれない。知らない。わからないけど。家族なんて、自分にとって当たり前すぎて、比較対象を探そうとも思わないし見つかりやしないんだから、家族についての理解は年を経ても深まる気はしない。

 

地に足がついていない私にとって衝撃だったのは、就活なんだろう。

自分と同世代で、自分より優れた人間がしぬほどいることに気がついてしまった。

多分、大学という場が自由すぎたのだ。自由すぎて、差が大きく開いてしまった。ずっと遊んでいただけの私は、そうでない、思考力を鍛え、ビジネスを理解し、社会へ溶け込むことに意欲的な人間ばかりに囲まれて、自分の情けなさに気づいてしまった。自由でいたいとかいって、現実で自由を手に入れるための努力を全くしなかった私の情けなさに気づいてしまった。

自由にいるための努力とかマジで意味わかんない。わかんないよ。もう自由じゃねえじゃんそれ。「自由を手に入れるための不自由」だ?うるさいなあ。そういうこと言ってないよ。けど、もうそれしかないんだよ。自分の存在が自分だけでは成り立たないこと、自分の運命は自分だけでは良くも悪くも成り立っていないこと、自分は社会のなかにいる人間が産んだものであること、社会に守られて育ってきたこと、社会を志向していること、社会が愛しくてたまらないこと、社会の汚さに辟易とすること、全部、全部認めたら、もうやるしかない。私の自由を今から手に入れるために。やるしかない。

 

確かに、私はそうだった。

「やるしかないなら早くやろうよ」っていう人間だった。遊ぶために生きているような人間だった。食と、すきな人と、開放を求めて生きていた。「そっちのほうがかっこよくね?」って美で動く人間だった。

 

別に、

仕事が生きがいじゃなくたって、思考が複雑じゃなくたって、真面目な場面ですべて頼ってもらえなくたって、すきなはずの彼と違ったっていいんじゃないか。

すきな人が、いつの間にか目指すべき像となり、比較対象となり、正解になってしまった。多分、相性と時期が悪かった。あのときに、こんな人間の近くにいたら、私はこうなってしまうのだった。

けれどもちろん恨むつもりもない。いや本当は、もっと優しくしてくれたって!と思わないでもないけど、もっと大人っぽい人と付き合えばよかった!とか思わないわけではないけど、彼と会わなかったら私はまだ地に足がついていなかったかもしれないし、地に足がついた人間を一生嫌わなければいけなかったかもしれないし、怠惰になってしまったかもしれないし、何にも気が付かなかったかもしれない。

 

私がすきなもの、

銭湯、フェス、音楽、食、すきなひとたち、

全部開放するためのものだった。私を無駄な緊張から、恐れから解き放つものだった。

私は一番誇らしい自分を知っていて、それは開放された私で、なんでも許せる私だった。人間を愛で包める私のことが、私はだいすきなんだと思う。

そうであれたら、そうであるために、私はしっかり立ってやろうかなあ。

今の地面に立って、ちゃんと鎖は外して、いまはたまに数センチ飛んで笑いながら、いつかは10mくらい常に浮いていられたらなあ。それを目指して生きられたら、たぶんそれでいい気がする。

またふゆだ

夏が1番すきだと言い続けて何年だろう、いまだに夏がすき、ずっとすきでいたい。

 

でも冬もすき。寒くて、クリスマスソングが流れて、寂しくてしあわせ。

歩いていればすきなひとを自然に思い出す季節だ。

 

私にとってすきなひととは、手が届かないひとなのかもしれない。

同じ土俵で戦いたいんだけども、同じ土俵で戦ってしまったらいまなら圧倒的に負けが決まっているような、経験値でぶん殴ってくるひとたち。

そんな彼らに憧れて、敬愛して、悔しくて、かっこよくてすきになってしまう。

強い感情を抱く時、それは恋だし悔しさだ。手に届かないから、飛び道具みたいな恋愛を使って、異性という肩書を使って斜めから目の前に降り立つ感じ。そんな気がしてきた。

 

彼らに浅ましいところ死ぬほど見せてる。憧れる人間にほど見栄を張ってしまうの辞めたいなあ。けどもそういうものなんだよ。

どう都合よく解釈したって、バカか?と思われているだろうし、しょうもないと思われているんだろうが、なんとか関係性が保たれているので私の自尊心もギリギリ保たれている。あ~あ、人間ってなあ、、。

 

彼らはいつだって自分が正解みたいにしている。思いやりの主語を使わずに断言する人間も、自分の意見を言わない人間も、自分が正解かのように納得しながら生きているようだ。はあ腹立つなあ。誰も正解を持っていないはずなんだけど。

 

真面目ぶっているのが、目の前のことに執着するのが、きらいだ。

小さなことや自分の感情や自分に執着するだとか、ただのからかいを本気かどうか議論しているのが浅ましい。自己紹介になっているなあ。ねえ。

でもどうにもこの真面目精神みたいなものが消えなくて、これが田舎臭い気もしていて、ソフトボールを真剣にやりすぎたかもしれない。

違うんだよなあ、自由になりたいし自由な私もいるのに、私のこと引っ張り続けている私がいる。ああでも自由って本当の自由じゃないし、わからないなあ、すきなひとと戦いたいから同じ土俵を選んでしまいそうで怖い。

逃げたくない。それぞれのよさとかそうじゃなくて、ちゃんと肩を、隣で肩を並べられる人間になりたい。斜めとか、場所が離れていて遠くから挨拶するんじゃなくて。

 

でもそれは彼らに認められたいからじゃない。彼らと並べるだけの人間であると自分に認められたい。

私は結局誰からの承認も必要としていないんじゃないか。本気で誰に褒められようと、癒やされるのは心が死んでいるときだけで、いやいつでも癒やしではあるんだけど、ああうれしい!生きていてよかった!となることは少ないんだな。

私は、私に最高って思ってもらいたい。そのための理由付けをしていく人生。よりよく生きるのはそのためで、美しくなりたいのもそのためか。

多分、多分だけど、私に認めてもらえれば、そのときは私の前から権力とか恐れがいきなり消えるんだろう。それは遠くない気がしていて、そこまで近くない気もしている。

 

はやくゆるしてあげて

恋人が腹立たしくてしょうがない。

 

なんで1年半も一緒にいて、私が不機嫌なときの発言には裏があることとか、あなたに不満をいだいているときの態度とか、そういうものを全く理解してくれないの?

私の寂しさや悲しさは到底彼の手に負えそうなものではない、正確にいえば「はいはい」という態度で一緒にいられても何も嬉しくない。

だから私は結局彼を他人と思うしかなかったはずなのに、それが悲しくてそういうものなのだと理解するしかなかったはずなのに、彼が自分にとって私がどうこうとか言うから。私がつらいときにそんなこと言うから。だから私彼が許せない。

他人じゃないなら、彼にとって私が他人でないなら、それなら私が辛い時絶対一緒にいてよ。すこしくらい何かを犠牲にしたって一緒にいてよ。私のこと助けてよ。

それか、彼は自分のために私にあれこれいっているんなら、もうそんなひととはいちゃいけない。わからないけど、そんなひとと一緒にいてはだめだ。そんなひとも変わるのではないか、変えてあげたい、そんなエゴで最初は包んでいた気がするけど、そんな自信もなくなってしまった。私はそんな人間じゃないんだ、きっと。彼ができていることができないし。ダメ人間だから。とか。なんか私の価値観が貧しくて苦しい。

私は、彼にとって私はすっかり他人ではないと思っていて、だから私のこと全部わかってほしいしわかったなりの行動をしてほしい。それが重いのか、私のことがまだわからないのか、わかったなりの行動はできないのか。

行動ができないとしたら、もうそれはそこまでなんじゃないの。だって、わかってて、知っていて、行動しないなんて、そんなの愛があるもんか。

私が寂しがるの知っていてなんでフォローの1つもできないのかわからないし、恥ずかしいなんてどうでもいい。彼の羞恥心なんて私の心を救うためなら捨てられるでしょうよ。

彼なりの解釈で、いつまでもその解釈でいられると思わないでほしい。私にだって解釈があって、どっちが正しいかなんてわからなくて、私を愛するなら私の解釈を理解しようとするくらいしてほしい。いままでごめんね、私が悪いんだなんて謙虚ぶって!

早く私と生きる覚悟をしてよ、恋愛はきれいでも合理的でもないのわかってるくせに。私は彼の家族計画に乗るつもりなんてないし、彼も私の人生に全部合わせる気なんてさらさらないだろうけど、恋愛するということはそういうことでしょ、いまを一緒に生きるって覚悟することでしょ。

 

お互いを支え合って、なんてきれいごとくそくらえ。お互い一緒に沈んで、くらいだろ。沈んでも笑っていられるよね、二人なら沈んでもいいよね、そのくらいの覚悟でしょって私はまだ思ってるよ。

双方きれいな恋愛なんてどこにあるんだろうか。ありますか?もしあれば教えてください。

ぜんぜんどらまじゃないけど

全然ドラマチックな文章にならない、まったくもって無機質で最高に人間らしい文章になる。おそらく全然まとまらない。それでもいい、書いてみる事が今の私にとって大切。そうこれは私の再構築記録。

 

やっと見つめた、私の根源は人に認められることだった。誰に、とかじゃなくてより多くの人に認められたい。承認欲求がかなり強いのだと思う。とはいえ、幼少期に無下に扱われた記憶など皆無だ。たぶん、私は人と比較して良し悪しを決める優生思想が強く、それが承認欲求をブーストしていったのだと思う。例えば、「満たされた~」と思っても上を向けばその瞬間に更に上の「満たされた~」が見つかる。それで私は今の自分は全然満たされていない、と思うのだ。当たり前を無下にする、私のやりがちな考え方。上昇志向と優生思想が強いあまりに下を見ることが嫌いで、常に上を見なければいけないと強迫観念的に自分に言い聞かせているのだと思う。

優生思想がなぜ強くなったかは定かでないけど、1つは自己確信の弱さがあると思う。自己確信がかなり弱く、自分ならできると思えど人に言えないし、自分はできると事を進めても「本当にできるのか?」と何度も自分に問うてしまう。そのたびに負けん気でどうにかしてきた。自己確信が弱いから、実績・結果がないと自分を誇れない。自分を良いものだと言えない。それが、実績や結果の人との比較で自分を捉える優生思想になったのではないかなと感じている。

 

人に認められたい私は、所与の条件の中で勝つことが最も効率的な手段だと考えて、第一の目標としてきた。学歴社会において頭の良い高校・大学に入ること、異性からの評価がカーストになる世界においてモテること、資本主義において高い年収・多くの資産・それに比例する暮らし方を手に入れること。

今まで問題がなかったのは、美容・内省や勉強と自分の嗜好が大きく外れていなかったからだ。継続努力が必要な受験勉強はなかなか身につくまで厳しかったけど、勉強のやり方はどんどん新しくなっていくから面白かったし期限付きなのもよかった、ある程度短期で結果が出るのも良かったし新しいことを知るのも楽しかった。ただ、資本主義的なものとはあまり相性がよくないみたいなのだ。もう少し正確に言えば、資本主義によって生み出される価値観とかそういうものと。目的意識とか、合理性の重視とか、そういうもの。私は目の前のことに無心で取り組む時間がすきだし、結構感性的な人間だ。私の周りには同じく感性の鋭い人間が集まっているからいくつか(もしかしたらほとんど)はわかってもらえてしまうかもしれないけど、冬の朝の匂い、夏の夜のコンビニに行かなければいけない気分、季節の匂いで一瞬で思い出される当時の感情と価値観、水の流れの前に長時間いることで浄化される心、空間への好悪、自分の感覚の読み取りの重要性、その日の自分の願望を聞くこと、そういうものを重視する人はそんなに多くないのだろう。今まで誇らしく思いながら、言いたくなかったし目を背けていたけど。だって、私はこの世界の現時点での所与の条件、資本主義のなかでも上手くやれる人間でありたかった。いま、この世は芸術の世界ではないのだ。私のアイデンティティの1つは"価値のある自分"だった。だからずっと所与の条件が苦手だと絶対言いたくなかった。自分のことを価値の出せない人間ですと表明しているようで。

 

人に言われたことは案外そのまま合っている、合っていた。私はずっと、自分の嫌な部分、弱い部分を見られないように、見られて無価値だと思われることを防ぐために、というか自分が"無価値な人物像"であってほしくなくて必死だった。自分の中で生まれてしまうであろう悲しいとか辛いとか嫌だという気持ちを整理したくなくて、"私はそれを認めたくない"という事実を認めたくなくて、人に感情的になって議論を終わらせてみたり、世間を憎んでみたり、人に賞賛の言葉を求めていた。ただ、いくら称賛されても、あなたはそのままでいいんだよ、と言われても全部虚無に見えた。そんなこと意味ないのに、それじゃ私は世の中で評価されないのに、もっとみんなに認められなきゃいけないのに、情けの言葉をかけてもらって私は何をしているんだろう。情けない。言ってくれた相手への憤りじゃない、私のことを愛して大事にしてくれない世界への憤り、その世界を変えられない自分への憤り。

 

自己確信が弱くて自己愛が強いから、自己防衛が強くなってしまう。「自分なら絶対いける」と思えないから、人からけなされる、認められないのが怖い。例えば、恋愛の仕方は人からけなされること、認められないことは怖くない。それは経験と承認が十分蓄積されたことで自己確信できたから。私はもう何を言われたってどうにか上手く恋愛できるし。まあそうは言うけど、あからさまにアプローチが減ると不安になるのは結局根本の自己確信が弱いからだと思う。私はどんな状態でも素晴らしいとは思えない。かなり世の中に迎合して生きてきたのだろう。

 

別に認められたいのがだめなわけではない。ただ、認められなければいけない、とか、全員に認められなければならない、というのは中々苦しい。でも私は私の周りの人に認められればいいとかそんな風ではない。もちろん認めてほしいけど、自分の影響範囲を増やしていくのが結構面白いんだと思う。恋愛とか色欲はそのための簡単な手段だった。いやでも認められたいと言うか、私の世界を人に届けたい。私の中のユートピアを。自分の世界を広げていきたい。私のつくる素晴らしい世界でみんなを救ってあげたい。ここにこれればいいやと思ってほしい、そんな場所でありたい。

 

「私はそんなに弱くないよ」と自分に言ってあげたい。

私はそんなに弱くない。人の言葉から全部守ってあげないといけないほど弱くない。完璧じゃなくて欠点もあるけど、人間らしくて汚いし情けないけど私はそこまで過保護にせずとも生きられる。自分のアイデンティティは"価値の出せる自分"でなくていい、そして"感情"でなくてもいい。

もっと楽になっていいはずだ。私のアイデンティティは私であることなのだろう、きっと。私という主体があること、それが私のアイデンティティなんだと思う。多分ずっと変わっていくけど、ゆく河の流れ絶えずしてしかももとの水にあらずというわけなんだろう。自分という主体であること、それだけを拠り所とする、そんな試みをする。あとは感性。私が感じることは誰に偽物と言われようと本物だし鋭いものだと思う。そうすると、プライドは目標から生まれてくるんだろうか。私の目標はなんだろう。私であること、だろうか。私として生きること、私としてどうあるかということ、そこにプライドを持つ。なるほど、やってみよう。

 

 

後半は書きながら考えたので大分雑。それでいい。

別にもうだめな私を隠す必要も、自分を過剰に守る必要もない。

自分で自分の素直な欲求と感性に向かうこと、そしてそこに言い訳をしないこと。

 

なかゆびのゆびわ

「議論は戦いじゃないと思うけどな」とか、「すべて二項対立なわけではないんだし」とか、「極端すぎるよ」とか、わーもう、そうですはいはいそのとおり!という感じだ。

私の中での20数年の大義が失われ、私が揺らいでいる。

全然人とうまく話せない。正当化しなければいけないみたいに思っている。

けれど人から認められることをこれほどまでに大事にしている理由が見当たらない。

 

最近とりあえず客観的には見れているの、落ち込んだ時に「でも問題は紐解けば解決できるな」とか「意外にしょうもなくない?」とか全然思える、成長している。

けれどそれを実行できるかは別なのだ、なぜ?

 

私は怒るのがすきなの?泣くのがすきなの?

とりあえずあのひととは違ってめんどくさいのが嫌いなわけじゃなさそう、と思ってみたが、なんだかんだ「めんどくさいなー」と思ったときに復活している自分がいる。

けれどそんな効率的に生きたいとか思ってもいない。

 

物事は曖昧だ!世界は曖昧だ!それでこそいいんだ!と言っていたあの頃の自分にいってやりたい、そう思えないときもあるのだと。それも間違いではないのだと。

志望動機は比較して説明しなければならず、自分のことは相対的によく思ってもらわなければいけない面接を繰り返し、そんな日々の中で自己確信を持つなんて無理だ。

けれど逆説的に、自己確信できている人が受かる傾向もあるようにみえてしまい、そして自己確信できている人もいて、だからこそまた自分がいやになる。

 

 

感じたことが全てだ、価値観はいいけど感性をぶん殴っちゃいけない、人と意見を交わすのは全然良いけれど相手の感性をないがしろにしてはだめだ。

絶対に回ってくるのだ、情けないけどあのとき誰かに放った一言は次の瞬間の自分で、自分に声をかける誰かも同じ道を歩いているとしか思えない。

人間なんてどうしようもないと諦めるのも違くて、本気で人の話を聞ければいいのだけど、そこまで自分が至ってない。

 

できないことがたくさんあって、ずっと文句を言われる。そんなもんだ。そんなもんじゃないって言ってもそんなもんなのだ。その中で成長していけ、と、言われて資本主義に染まっていく。

 

「市場価値が人間の価値ではないのに」とそういっても、それは資本主義のはびこる世界の中での発言だから偉そうな人たちに自信を持って淘汰されてしまう。

選択肢は2つある。それでも声高らかに叫んでいくか、相手の土俵で勝って文句を言わせないか。

私はずっと後者で、だから嫌悪しながら憧れて、染まることをよしと言い聞かせて染まって完全にそっちの人間になってしまう。それを変化と呼べるだろうか。それを変化と呼んできた。

 

私のあこがれのあの人はどちらの選択肢も包含しているように見える。いつでもあくまで見えるだけ、だ。

それでも私のあこがれはあの人ではない、でも見えない、薄っぺらいあこがれは簡単に移り変わっていく。

 

強くなるために自分を晒すこと、それは思ったことを口にすることではない。

自分を晒すことは、わざわざ相手に分かりやすいように自分の弱い部分を開示することだ。

その勇気がなくちゃいけない。そんな勇気なんてない。自分がそれでも評価されるとなぜ言い切れる?

 

人に評価されること、どれだけ私の中で大事だったのかがよく分かる。

原因を記憶に探しても見つからず悩んでいたけどやっと分かった。見つけたときに心の中がすっと白に近い灰色に晴れた。

私は、自分のやることすべてが認められて当然だった。

そういう環境で生きてきた。「あなたと私の思うことは違うけれどやってみな」とかそういうに言われたこともなければ私が言ったこともなかった。私のやることはすべて応援してくれなきゃ、と当然に思っていたし、全部応援するという意気込みの親だった。

だから、腹が立ってしょうがない。私のことを認めてくれない世界が。人が。思い通りにならないすべてが。

世界は私を満たすためにあるわけではなく、もっと多くの人間の感情が渦巻いている。きっと、幼い私にとっては汚い世界。私のことを信じないひとが、応援してくれないひとがいるなんて、なんて汚いありえない世界。幼い私ならそう言う気がする。

私はずっと世界に過剰に期待していた。同時に、信じていた。

 

思い通りにするための手段が、人に好かれることだったと解釈すればすべてが繋がる。

私の大きなテーマは「うまく生きる」だった時期もあるわけで、それはすなわち「思い通りに生きるために各値を調整していく生き方」だったわけで、いまどうしても思い通りにならないことが多くて価値観の限界が来たのだと思う。

 

そんな私の環境に器用貧乏な性格がうまく作用していままでそれでやってこれた。

操作可能な変数をしれっと変えても勝てない場所があるのだと、というか操作不可能な変数がこれほど世界に根強くあるのかと絶望したから限界が見えた。

 

再構築だ。自分の。でも道筋は見えた。心が晴れた。