制服記

シティガールたちよ。

あどべんちゃー

 

人に好かれることは人にとって都合が良くなることだからコントロールできる。

そんなことを前書いた。

1人の人に好かれようとすることは、その人にとって都合が良くなること。それがそのまま都合の良さだったり、安心だったり。

安心したくて安心させたくて、後悔するくらいなら賢くいい時間を過ごしたくて過ごしていたらだいぶ落ち着いた生活になっていたみたいだ。

とはいいつつ、大人しくしてるのまだ1/4年も経ってない。迷惑はかけるし、常識的によくないことするし、心配させるし。と書いていて気づく、いつのまに私は誰かのために生きているんだろう。あの子に読まれたらまた彼をけなされそうだけど、ちがうよ、彼の問題じゃなくて、基本私の問題だからね。と一応言っておく。

 

私はいつでも私の美意識が大事で、それが何かと思えばただのプライドな気がする、プライドごときに私の人生全て持っていかれると思ったら悔しくなるんだけどそれでも怠惰に落ちきるほど私は強くないし弱くないんじゃないか。

私の言葉はだいぶ戯言だと思われてると思う。先ほど言及したあの子は過剰に私の言葉を大事にしてくれていてそれもそれで申し訳なくなるんだけど。

複数のひとを同時並行で愛するってあまりないんだろうか。何が悪いの?ってしょうもない開き直り。すきな人に会いたい、すきな人と一緒にいたい、近くにいたい、知りたいよ。一番純粋だからこそ厄介な気持ちでしょ、「だってすきになっちゃったんだもん」が美化される世界だよ、それでも本当に美しいのだろうか。

誰が上とかどうとかそういうことじゃない、私はみんなすきなの。「安定があってこその遊びでしょう」って言葉響いたな。そうだよ結局私は無い物ねだり、無い物ねだりでいいと思ってたの、それが私を動かすものだった。でもその言葉をもらってそんなことない気がした、無い物ねだりって格好悪いんじゃない?だって、本当に大事な人のこと悪く言って、すきな人のこと称賛してもらって、やってることめちゃくちゃ。違うの、私はどっちがいいとかどっちがだめとかじゃなくて、違くて。わがままなだけ、私は不安定が嫌いで不安定があってほしい。たかが数ヶ月常識っぽく生きただけで、自分がつまらなくなったとか、刺激が足りないとか、どれだけつまんないのよ私自身が。

でもずるいよ、私が遠く行っちゃうんですねと言ったら「離れちゃう、、」とかそういうくらいの男のほうがよっぽどつまんないよ、いつも適当なくせにちょっと私の言いなりになってみたり真剣ぽく遊んでみたりそういうほうがずっとずるい。彼とは逃避行みたいなことしてもダサくならない気がする、まるで小説にできそう、そんな気がしちゃってずるい。彼の着物姿も、ご飯食べるとこも、全部みたい、というか彼が私を思ってしてくれる行動全部みたい、独り占めしたいとか言っちゃお。はいはいわかってます、彼の行動言葉全部適当だよ、彼のことなんて読めないよ、どうせ気が向いたくらいだよ、それでもいいけど私まだすきでいるからね。

彼のことばかり綴りたくなるのも日々があってこそです、どうせそんなものです、日常愛してるよ、そして非日常も愛してる。

 

 

みんなかってにしろ

っていう。言われる。言われている。

 

受け取り方なんて、話し方なんて、伝え方なんて、それぞれの勝手だ、合理的に考えろ、対して他人は自分のことを考えていない。人は自分なりの正義で生きてる。

 

そうだよ、どうせそんなものだろう。

割とそちらの考えに近くなっている感覚。

けれど、やさしい文を書く人を見て思う、それでいいのか、みんなが合理的に生きたらこの世界はしあわせになるだろうか。

 

「人間なんて完璧じゃないんだから、お互いしょうがない」とか、そんなのわかってるけど、そんなこと偉そうに言われたってなにもしょうがなくないじゃない。

さんどめのはる

久しぶりに友達の書くブログというか、それを見に行ったら私のことを書いたであろう記事を見つけた。

人から見た自分をじっくり味わえるので、人が自分について書くのを見るのは嫌いじゃない、傷ついたり嫌いになったり嬉しくなったり愛しくなったりする覚悟をして読むものだ。

それを見て自分がずいぶん進んできたと思った。

いまだに理性と感情に揉まれているけど。

まず、文章を書かなくなった。感傷に浸るのをやめてしまった。

最近やっと気づいたのだけど、はずかしいことに、私は自分の近くにいる自分が執着してる人に多分に影響されるらしい。特に、そのとき付き合ってる男とか。彼は合理的で、女心がわからなくて、感傷みたいな曖昧な感情に興味がなくて、すぐ言い切るし、自分の価値観を人に押し付けがちだ。なぜ私は私がいやだと感じるものをもった人と付き合うのか。まあそんなもの明快で、私がいやな性格なんてのは多少の執着や憧れがあるわけで、つまり自分が持ってないものを持つ人に惹かれる、そんな単純なこと。私がすきになる男のなかでももう少し私と親和性があるひともいるのだけど、どうしてか今回は似ているようでかなり離れたひとを選んだ。そんな彼に多分に影響されてしまった私は、ひとを正解で見てしまうようになった。この人は私よりどうこう、これに関しては私の方が知っている、まず頭の切れ具合はどっちが上だろうなんて言う風に、なにか、誰かが都合よく決めたいわゆる「優秀なひと」という基準にあまりにも浸食されていてかなり気持ち悪い。彼がそういう観点で、少なくともそういう価値観を含んでいそうな観点でひとを評価しているので、私も尊敬する彼に習っているわけだ。最悪。そんな人間にはなりたくなかった。ひとはどうでもいいけど私は、私はそうじゃなく生きてきたのにな。

あとは、周りの環境。いわゆるトップ層の「優秀なひと」が求められる環境に飛び込もうかとしている私はそんなひとたちから色々を盗みたい。ただそこには、選民思想や頭の切れ具合みたいな評価がちりばめられていて、やはり私はそこに染まりつつある。そういう理由で利己的に、自己中心的に、薄情になってしまった。親しい友達や彼氏といてもビジネスライクな考えを強引に使おうとすることとか、友達と長時間いることが苦痛になってしまったこととか、すごく嫌で、なのにどこかそれでいいと思っている。搾取とか利害とか使う側とか使われる側とか、そういうんじゃなくて、そういうんじゃない。私が求めているしあわせは違うはずなのに。ああ、資本主義で勝つ人間は資本主義の評価基準をうまく使える人間だというそれだけの話か。

「理性と感情は両立すると思うよ」と言い切った彼は、理性に多分に傾いているようにしか見えない。ビジネスにもまれながらも感情がよく見えていいなあと思っているひとはビジネスの話では少し感覚的すぎると感じた。私が中間を生きれる人間だと豪語するのはすこし傲慢な気がする。

 

それから、すこしは自意識過剰を認識して排除できるようになった。

ひとはそんなに私のことを見ていない、という言説に寂しさではなく気軽さを感じるようになったし、空気を読む世界から一歩を飛び出すことに楽しさを覚える。すべてのひとから好かれようと思わないのは、好かれるというのは相手の都合のいい存在になればある程度コントロールできると思ったから。自分の外見にある程度の自信がついたのもあるけれど、モテることにそんなに執着しなくなったのはコントロール次第でどうにでもできると感じているから。別に私の化粧がすこしうまくいかなくたって気にしているのは私だけ、というのはすごく楽で完璧主義から解放してくれる。すぐ忘れられてしまうからこそ大胆にいられる。

 

そんなものだろうか。最近自分の成長を実感できているのは、何も成果が見えなくて苦しんだあの期間があったからで、私はいつもそのサイクル。今回は出口がみえない気がして焦ったけど、やっぱり大丈夫だなと思えた。

最近の私はいろんなことを経験してそれらを全部飲み込むことで強くなっている感覚。嫌なこと、だめなこと、小さなチャレンジ、それらを考えたり乗り越えてつぎへの行動につながり、思考がまとまってきて自分に落ち着いている。こんなに行動が直接思考に影響を与えている感覚ははじめて味わった。

今の課題は、ひとをジャッジしないこと・ひとにジャッジされないこと。その根底にあるのは愛だし、自分とひとを切り離す強さだし、比べずにまかなえる自信だ。何か、チャレンジすべきなのだと思う。ひとに評価されることに甘んじてはいけない、私が相手に安心を与えたい。ひとと同じルートを辿って安心するのではなく、私が私なりのルートを切り開かないと未来が見えない。

 

 

きょうとのせんとう

 

京都にて、もうすこし余裕や無駄を大事にしようと思ってきた旅の2日目深夜の銭湯。

私が洗っていると、続々と舞妓さんが入ってきた。

彼女たちは上品に、丁寧に、風呂場に入るときには皆に挨拶をし、脱衣所では先輩や常連と思われるマダムたちに屈んで声をかける。

こういう類の、とくくるのも失礼だろうけれど、若い時から覚悟を決めてそれ以外見えなくなるような生活に身を投じたひとたちを見ると、感心し尊敬する。私はいまなお進路、もはや大まかな興味ややりたいことさえ見えていないというのに、同じくらいの歳の彼女たちはこうも凛と生きている。少なくともそう見える。

彼女たちが入ってきたとき、その結い髪で一目で舞妓さんだと分かったものの驚きはしなかった。銭湯でみる舞妓さんというのははじめてだったけれど、そういうものかとすっと入ってきたのは番頭や常連たちの慣れた対応のせいか、京都という土地柄に抱く幻想みたいな希望のためか。

忙しなく進む時間を痛感する東京にいては見られない生活を舞妓さんに見た。

挨拶のたびにすこし屈む仕草と結い髪をそのままに着ていたものを脱ぎはじめることはなんだかアンバランスで、銭湯で会う舞妓さんというのは「舞妓」という職業としては完全体ではない彼女たちなのだけど、化粧を落として素の部分を見せながらも凛とした感じが見てとれて、というよりは勝手に感じてしまって、これでは東京は息苦しくなるわけだなどと考える。

休日に出かける東京、着飾ったひとびと。ギャラリーやセレクトショップが並ぶ駅、雑誌のスナップのような服を着て歩くひとびと。はたまた満員電車に潰されながらも、スーツを着て都会で戦うひとびと。誰もが着飾って精一杯でいて、それを誇示しあっているかのようだ。

京都にいれば私も、黒髪にノーメイクに近い軽いメイクでラフに服を着て何も気にせずただ凛とあれるようになるだろうか。

ぴすたちおいろのはたちへ

 

何をせずとも輝く天才的な才能があるわけではない

何にもなれなくていいからと言えるすきなこともない

どうしてもこれだけはと執着したいものもない

ただ焦りのみ。

 

いくら愛に生きると豪語したって、きみだけに捧げられない。

「きみがいればなんでもいいよ」とか言われてみたい、けど言えない。

自分だけ見てればいいよとか言われたって、ひとりじゃ生きていけない。

自由なきみをみているのがすきで、いつでもどこかにいきそうで怖い。

 

世界を知らないでのうのうと生きているのが耐えられない

ただ、世界を知って思考に揉まれても突き通すだけの自我はなかったというだけの話だ。

考えるのがすきだなんて嘘、なんでこんなに思考してしまうんだろうか

執着したくない、穏やかに生きたい、と言いながら爆発的な希望を探してる。

ごちゃごちゃ言ってないで何かに執着してでも前に進めばいいのに。

とかいくら書いても納得できない。

 

無力で、非力で、現実は厳しくて泣きたい。いっそ私の価値を誰かに決めちゃってほしい。けど、どうせ誰に決められたって納得できない、私がいいっていうところに行くまで納得できない。やるしかないやるしかない、目の前のことやるしかない。そういえど隣の芝はいつも青い。

そいみるくはあんまり

 

新年、久しぶりにおめでとうが言えない年だ。

 

去年はすきなひととたくさん会った。

彼のことたくさん考えた、振り回された、たくさん寂しさと孤独を感じたし自分の弱さを知った。

あのひとと何度も会えた、ずるいなと思っていた彼は思ったより優しくて、理解できなかったのに人間味を帯びてきた。

 

自分とよく対峙した。

人を真剣に愛そうとすればするほど、自分の弱さや醜さや強さや愛情深さやエゴがみえた。

ひたすら考えているつもりだった、けれどその一部はただのうつ的感情、またある一部は思考が混沌としているだけだった、悩むのではなく考えるのだと学んだ。

 

焦った。

私らしくもなく、計画的だとか、効率的だとか、間に合わないと怖いだとか、そういう観念に脅迫されて勝手に焦り、八つ当たりして、人を羨んだ。私の得意はフットワークの軽さと行動力でもあるのだし、余裕がなくてひとに優しくならない自分が嫌だからもっと気楽に生きる。楽観主義万歳。

 

あとは服装の好みが固まって自分をよく見せて自分がすきな服装ができて楽しかった、自信がすこしついた、知らない人からの承認とか男の子から向けられる視線がどうでもよくなった、それと私に興味ない人間のことはあまりすきじゃなくなった、人間の醜さやエゴをみて落胆した、愛することをほんの少しだけ学んだ、長期的視点で悩んだ、自分の感性に従うことを学んだ、自分で考えることを学んだ、無駄な浪費は減った、勉強しようと思うようになった。

 

去年なんとなくインスタの投稿に添えていた目標が今年意識したことと大いに繋がっていたから、今年も何かふわっと決めておこうかなあと思い今年の目標を立てることにする。

 

そうだなあ、もっと気楽に楽観主義で、もっと余裕をもって自分も人も不完全さも許して、もっとやさしく。

そして凛としていたい、文脈化できるひとでありたい。

あんまりここに囚われることなく自由に自分の思うようにやってくれ、今年も。とは思ってる。

年始のこの何か始まりそうな予感、穏やかな雰囲気、気の引き締まる空気がだいすき、また一年たのしく思いっきり私を楽しめますように。

 

 

やがてかなしきおんなのこ

 

人と暮らすのは合ってない、いつか住むのもすきな時間に起きてすきな時間に寝れる住居にしようと決心した。

 

しょうもないような日常と、見えない絶対と、堕ちきれない人間と、持つしかない希望。

なんてことなく使っていた虚無という言葉の語法はあながち間違っていなかった。私の表す心情は虚無だったし、現代人の普遍的病理だったわけだ。

 

地元は退屈だし、ゆるい絶望の中で生きるなんて絶対嫌だし、先は見えなくしておきたいし、女の子は危うくて素敵だ。

 

悶々とした小説を読んだ、救われないやつ。

都会への、地元を離れない人間への、セックスへの、あるいは自意識への執着。

あとがきを読んでいるころに、女の子から「元カレが結婚した」というLINEが届いた。

このあとがきはすきじゃない、もっと主観的にしてくれ、もっとどろどろしてくれ。

 

女の子は黒を人生の序盤で覗きみる。

その汚さを認め、足を突っ込んで、それで這い上がって生きていくんだから、強くてかっこよくてどうしようもなくて情けなく弱くて愛おしいんだよなあ。