制服記

いつまでも不自由を愛さないでね。

あいとかなんとかいってたよ

 

私が大事にしてきた愛は、人への強い思いはただの執着だったかもしれないと、突然勘づいたのであった。

 

ルールを欲しがってしまう、何か決まったルールを信じていきたい、それは私の弱い部分なのかも。

 

私のルールは、すきなひとなのだ。

分かりやすい宗教とかコミュニティじゃないけど、私にとっての信奉。愛の矛先。宗教とかコミュニティと同じように、自分が認められるための手段。

だから、永遠にすきなひとが途切れない。

 

私は異様に自己肯定感が低いのかもしれないと、ふと銭湯の脱衣所で思い立った。

正確にいうと、私という人間は私の愛を受け入れるほどの器でないのではないか。

だから、誰かを熱狂的に愛して信奉して、その人に認められることで自分を認めている。

 

分かんないんだよな、自分を拠り所にする意味が、究極の戻る場所を自分に置くことの意味が。

とか偉そうにいうけど結局私も私が一番可愛いんだろうけどさ。

でも、つまらない。自分を拠り所にして、何が楽しいんだったか?

 

分かんないから、理想や関係性に執着してる。

ただ、自分の愛を執着と捉えたら、ああなんかここにいるのって虚無で違う気がしてくる。

執着に塗れているだけで、「ありがとう、私の人生にとって大事で必要な存在だった」と一言言えれば足元から簡単に崩れていくように思える。

 

怖いよ、怖いなあ、私の大事なものたちが何でもなくなるなんて、私を賭ける存在がいなくなるなんて。

全部虚構みたいだ。

日常的で人間的な一切を愛した昼下がりがあれば、日常的で人間的な一切が気持ち悪くてしょうがない夜がある。

結局全員人間で、遺伝子レベルの影響を強く受ける動物でしかなくて、日常とやらを何十年やり続けて小さな情動に翻弄されて死ぬのか。

私も例に漏れず、遺伝子に促されて、自分の生存のために必死で感情を抱き行動していくんだろう。

 

全員人間で、ただの人間で、どこにもルールがないとしたら、あーなんかめちゃくちゃつまんないよ。

 

そんな事を考えながら聴いた、最近すきなバンドの曲は、どこか軽くて抜けていてニヒリズムが漂っているように思えた。

違和感を感じるもの

 

やっと、やっと約1年続けたことに区切りがついた。

とはいえ、まだ続くには続くんだけども努力の方向性が変わるので、一区切りには違いない。

自分に欠けていた論理性を埋めるに当てたといっても過言ではない1年の反動と、そしてクリエイティビティの復活を求め、文章を書くようにしようかなと思って久々にはてなブログを開いたのでした。

 

これから受けようかと思っている企業の、昨年のエントリーシートの設問。

「世の中や身の回りにおける、あなただけの「違和感」を教えてください。その違和感に対して、あなたはどうしたいですか?」

まあそれはそれは、みなさんクリエイティビティ溢れた文章をお書きになられていてビビるけども、手慣らしということで好きに書こうと思う。

 

 

「タワマンが幸せの象徴か?」

酒。タバコ。これらは社会によい影響を及ぼしているだろうか?駅にデカデカと貼られた子供の手書きの「よっぱらったら、何をしてもいいの?」という文字や、昨今のタバコ嫌"煙"の風潮を見ても分かるだろう。社会全体の視点で見れば、酒やタバコは悪なのだ。さて、それではなぜ禁止されていないのだったか。大麻が日本で禁止されているのは大麻使用者が事故を起こす可能性があるから、なんて誰かが言っていた気がする。これらが許されている理由、私は「人間が旨味を知ってしまったから」だと思う。夜間工事現場で働くあんちゃんも、国を動かすおっちゃんも、バリバリ働くキャリアウーマンも、家事育児に勤しむ主婦も、みんな、酒が、タバコが好きなのだ。それぞれの世界を動かす「人」をただの動物の「ヒト」に引きずり落とす、そんな甘美な「快楽」に、人間は逆らえない。逆らえないから禁止はせずとも、とりあえず悪ということにしておく。一方、世間が奨励するのは、タワマン、美人な妻、ブランドバッグ、高級外車。それらを手に入れるお金が必要だから、怠惰を、快楽を求める心を抑えて働く。そうして手に入れるのは、承認欲求という「快楽」?人間よ、「人」のフリをするんじゃないよ。人間よ、僕らは一介の「ヒト」なのだよ。

 

 

「多様性」

私の彼氏は立派なリーダーだ。社会貢献のために無賃労働も厭わない。マネジメント経験も、勉強量も豊富。彼は、立派なリーダーなのだと思う。それでも、私はそんな立派な彼の言う「多様性」に反論したい。彼は理路整然としていて、いい意味で鈍感なタイプ。一方、私は直観的で、色んなことを気にするタイプ。お互いの意見がすれ違うとき、彼は決まって「ごめんね」と言う。それは「分からなくてごめんね」であって、「じゃあ理解を試みるね」とは一切言わない。私の考え方は彼に言わせれば「まったく想像しない」ものらしく、彼は私に「嫌なことは教えてね」と言う。彼は何も分かっていない。私の考え方をすれば、嫌だと思ってもすぐ相手に言えないのである。ただ、そんなこと彼は分かってくれない。多様性とは何だったか。多様性とは、相手の感じ方、思想が存在することを、そしてその存在を認める行動を取ることではなかったか。「分かっていないようだから伝える」が出来ない人間がいることを認め、一言かけることではなかったか。「多様性」はそんな綺麗なものじゃない。「多様性」とは定義を議論し続けるものじゃない。「多様性」とは、「自分と相反するものを、自分には理解できないものを、認めていく姿勢を取る」、そんな自分との泥臭い戦いなのである。

 

 

うあ~書いたはいいが長い。

なんだかんだ、私は社会へのヘイトが溜まっている人間である。

社会だけじゃなくて、色んな事に小さなヘイトを抱いているらしい。

特に覚えていなくても、関連する話題が出てくると浮かんでくる怒りや悲しみがある。

自覚していなければいないほど、乱雑に言葉にしてしまうからよくない。

なんならちゃんと自覚して、言葉を選んだり口をつぐんたりしたい。

 

疲れた。疲れましたので、終わります。は~腰が痛い。

いつもめがさめるようなかんかくといっしょに

 

 

「、、なんでもないっ」

そう、そうやってちょっと威勢のいい、聞くことをためらうような言い切りの「なんでもない」には、悪いニュースがついてくることを知っている。

それでも私は聞かなきゃならない。いつか裏切られてしまうかも、と怯えるほうがよっぽど怖いのだ。

「生きづらいな、と思って」

とっさに考えたことは明らかに私の本音だった。おまえが言うか?

 

「そうやって、周りの人のことをいちいち気遣って、必要なのは分かってるけど、めんどくさすぎる、」

「それって私がそう振る舞うことであなたに危害を与えるからってこと?それとも、あなたが世の中で生きていくうえでってこと?」

「そう、俺が生きていくうえで」

ああよかった。前者を答えられていたら、一瞬で泣きながら怒ってしまうところだった。

 

「生きづらい」なんて、彼の口から聞くとは思わなかった。

「生きづらい」なんて、言いたくなかった。だって、そうやって逃げてしまいたい項目が、恐ろしくたくさんある。それで逃げられたら、厭世の志向がもう少し強かったら、どんなに楽だっただろうか。

 

私はあなたに反対のことを思う。

想像力がなくて楽そうでいいよね。だって、その言葉で、私の生き方を「めんどくさい」で片付けるその言葉で、私を傷つけるかもしれないとか考えなくていいんでしょう。そうやって、自分の辛さを、気にせずストレートに口に出せるんでしょう。長所と短所は紙一重。だなんて分かっているように言っても、何も分かってないじゃない。魂のこもっていない言葉で、知ったかぶりをするなんて、最高につまらない。

「ひねくれすぎだろ~」「なんで怒ってるの笑」そんな風に、私自身の葛藤を、辛さを、軽い言葉とその時の感情で、簡単に踏めるなんて、踏んでいることなんて気づかないで、このままずっと気づかないで、そんな自分を否定しないで済むんでしょう。

からしたら、あなたの方が100倍くらい生きやすい。うまくいっている中でうまくいかないものを1つ見つけて「生きづらい」なんて羨ましい。

 

もっている人ともっていない人、そんな最悪な二項が最近自然と思われる。

弱者と強者。繊細と鈍感。なにがそれを左右しているのかは知らない。

けど、弱者のいくつもの苦痛を「めんどくさいから見ない」ひとを、弱者の極論を「なんでそんな考え方になるんだろう。理解できない。」と一蹴するひとを、自分と同じだと思えない。

「めんどくさいものは見ない」ひとたちの、何が多様性だ。

多様性なんて、死ぬほどめんどくさいものだ。社会は分類が2つしかなかったジェンダーさえ受け入れられなかったのに、何がジェンダーダイバーシティだ。

どうせ、自分と50%同じで50%違うひとまでしか仲間だと見なさないくせに綺麗事を言いやがって。みんな気づいているでしょう、本当にバックグラウンドが違うひとを、理解することは、そういうひとに寄り添うことはできないってことに。しゃらくせえんだよ。

「恵まれてる」と口にするひとの何割が、真の意味で「恵まれてる」と思っている?

何割が、運次第で自分も自分が忌避する人間を作る環境にいたかもしれないと思っている?自分が厭う人間に自分がなり得たかもしれないこと、本当にそれはあり得ること、「自分は絶対ならない」なんて言えないことを、誰が理解している?

ただただ自分の状況や持ち物に陶酔するための「恵まれてる」だってことは分かっているし、別にどんな言葉を使ってもいいけれど。近代の貴族の美徳は一切見えなくて、悲しくなる。これが、これから世界の行く末か。

 

私は自分の何が嫌いなのか分からない。

エゴなのか、自我なのか、ナルシシズムなのか、自己憐憫なのか、レッテルに甘んじるところか、人間くさくて自分の美徳で許せない部分なのか。

簡単に口に出すひとが、思考や思惑が透けて見えるひとが、自分を開き直っているひとが、執着がみえるひとが、嫌で仕方ない。人間らしくていいね、だなんて、そうなんだろうけど、そう受け止められればいいけど。

分かっているつもりだ。弱いから、辛いから、口に出すし見栄を張るし、そういう状態になるときはほとんどのひとに必然だろう。それでも、みんなしょうもない人間だと言うなら、ならばみんな優しくしたらいいのに。表面上だけでも、しょうがないねって言っているフリしてくれれば。そんなことしたら、私みたいな訳の分からない人間が出来上がるだけか。

これだけ嫌だ嫌だと言っていても、言っているこの文章ですら、他人から見たら上記の要素をたっぷり含んだ文章なんだろう。ああ嫌だ。こうやって自分を縛っていくんだ。ああはありたくない、そんなことをいったら人間できなくなってしまう。出家するなり、一人で生きるなりしなければいけない。SNSなんてのは、一人になるために一番いらないものだから、だから私に向いていない。裏垢も、ストーリーズも見たくない。知りたくも見たくもない、強者の思想を振りまくみんなを見たくない、恋人に染まるあの子も、私に影響されるひとも、みたくない。いいのかそれで。ねえ、いいんですかそれで。「生き方の凝りはその人の自己防衛の結果である。」そんな言葉に今日出会ったのだった。

 

正義なんてない。正義なんて振りかざすのが最悪だ。

ああはならない、ああならない自分はよい。あれは最悪、それをしないだけ私のほうが優れている。

結局みんなその思想だ。私もか?私もだよ。

でも分からなくなってきた。「ああはならないから自分はよい」のではなくて、「ああいう姿でありたくない、目指す方向としてあれはない。」と判断した時にも嫌悪感は生じるからだ。その嫌悪感すら飲み込んで、「ああそれも人間だよな、私の嫌悪も彼女の嫌悪も彼の怠惰も自己正当も、すべて人間であるゆえにしょうがない」。私の理想はこれだろう。

例え自分がその理想を叶えたとして、それでも世間一般のムードがここに至ることは相当先だろう。もっと、すべてのひとがこういう思いをして、こういう思いを声高らかにいうひとが出てきて、格差間の戦いが起きて、どちらかが勝って、幸運にも繊細なひとが勝てば世間のムードになるだろうか。それとも、世界はそこまで素直でもアホでもないから、言えばもっているひとたちが、もたないひとをうまいやり方で利益を保持しながら懐柔するだろうか。どちらにせよ、私の理想は、現世では浸透させるのは夢物語だと、そんな風になる。

そして、「私が理想を叶えるのは勝手だけども」、「俺ら/私達は知らない」。

そうやって、受け入れる人が受け入れていくんだろう。それが、人々の拠り所になってある程度の人的資本は手に入るだろうが、現世的な幸せを求めるとしたらなかなか厳しい戦いになるのだ。きっと、何度も、透明な水をひとに渡しては泥水で返され、必死で濾過しては渡し、泥水で返されるんだろう。濾過の大変さを知らず、分かろうともしないひとたちに、好かれ、て? それで、満足できるだろうか。それって幸せだろうか。幸せを求めているのだろうか。いや、私は、私の思い通りにすることが大事だったから、それでは幸福と言えないんだろう。

 

追いつかなきゃいけない、私も頑張らなきゃいけない。

やろうと思っていたことを先輩に先越され、自分はこれだから、と思う。

自分の進みたい道を、迷いながらも確かに進んでいる友人達が羨ましい。

負ける気はしない、でもそれは幻想でこのまま置いていかれてしまうのかもしれない。

焦る、焦る、焦る。私だけが置いていかれてしまう。

そういう思考が私をさらに置いていく。

 

ああ、私に、自我を捨てるだけの陽気さを、全てを飲み込むだけの適当さと愛を。

いつまでもこどもでいてよね

小悪魔って、無邪気って、こどもっぽいってことだ。

よく考えてなくて、気分屋で、自分に正直であること。難しい。

 

小さな裏切りばかりの世界だ。

「小さな裏切りを経験していくことが大人になるっていうことだ」って文章最近見たの。まあそんな感じがする。

 

私の理想100%の人なんていないし、私のあこがれの人はあこがれの人を通してみる私の理想。

信頼している友達や先輩にも手を出されるし、酔ったらスキンシップとられるのもうんざり。

なよなよしてたら「そんなんじゃ」と言われて、救ってくれるわけでもない人に「弱みを見せなよ」って言われることにナルシシズムしか感じない。

 

いま私は大人になりかけの人間である。

確立しているはずの「自己」にこだわってしまうし、私のことなんて何もわかってなかったし、甘ったれてるこどもである。

ある程度のことは自分でやって、1人で暮らして、人に褒められなくてもそれなり楽しく生きてる大人でもある。

 

大人だから、「ねえ私こんなところがあるの、それでもいいかなあ」って泣きついてももう浅ましく見られるだけだから、自分のこと俯瞰したように話して相手から批判されないように取り繕わなきゃいけないの。

失恋したら人前で泣いて、悲しいことがあったら酔って泣いて、そんなことができる女の子を軽蔑して、そして、本当は彼女たちが強いことをどこかで知っている。

自分の悪いところを人に指摘されないように必死だなんて、強く見られようだなんて、なんて弱いんだろう。

 

信じたいから信じたら「信じるからだよ」って言われるのも分かる、「みんな頑張っているんだから」それはそう。

それでも私のなかの何かがずっと拒否している。信じたい、褒められたい、認められたい、愛されたい、必要とされたい。まだ幼い私がずっと言っている。

 

恋人にすべて頼りたい、と思う気持ちがとても良く分かった。

だって、100%の弱みを見せたい相手なんて、それでも認めてくれる相手なんてそうそういないのだ。

弱みを見せるのははずかしいし、それで分かったようにアドバイスされるのはもう飽きた。生きていたらそんなことばかりなのだ。いつから、私たちは、計算された言葉を話すようになった?悩みを話したら聞いてもいないアドバイスをくれる、選択に迷ったら相手なりの正解を提示される。こう動くように、こうやってほしいんだろうから、そんなの勝手なエゴだ。といいつつ現在進行系でそんなことをやっているから最悪だよ。

 

きれいなものだけみたいなんて一切思わない。

汚いものを知って、認めて、内包して、それでも前を向いている人にずっとなりたい。

多分そういう人はかなり無責任で、無責任にやさしいと思う。そういう人と一緒にいたら、今の自分なら確実にだめになる。

適当でありたいなあ、正義を持ち出したらおわりだ。正義があるからつまんないっていっていたひとに仕事上の正義をめちゃくちゃ押し付けられて最悪。つまんねえよそれじゃ。

誰も裁かない、自分も、相手も。

多分それは1番無責任、1番自己責任、でも自分に対しては誰よりも覚悟をもっている。

そうありたい。自分のことだけを、自我に執着せず、雑に、適当に、効率よく。そんな人間にずっと憧れているこの3年間だ。

 

 

もったいないでいきたかった

シンプルってそんなに正しいか?

 

ビジネス書だとか指南書だとかそういう類はどの本を見ても、シンプル、シンプル、言っていることは全部シンプル。

問題をとくときには複雑なままでは解けないよ、という当たり前の話か。

ただし、複雑な感情はどこにいくんだ?感情はいつだって複雑だ。

 

感情がノイズだという。人間という生物がそれ自身の社会の発達についていけていないから生じるものだという。

はあ、そんなものか?私が21年大事にしてきたものはノイズか。

確かに、感情がアイデンティティだったら、同じ感情を抱く友人は私そのものだ。だから私は「わかる~」と言われるのが嫌いなのだろうけど。同じ場面に遭遇したとして、同じ感情をいつでも抱いてくれる人間はいないから、それがアイデンティティとしてもいいけど、やっぱりそうなると感情っていうか感情を発生させるバイアスにこそアイデンティティがあって、バイアスとは経験から生まれる気がする。

じゃあ、感性がアイデンティティだとしよう。そりゃあ中学生の頃の、下北沢とWEGOを同時に愛していた感性はてんで理解できないけど、あの頃があって今の私のセンスがあるからやっぱり私のアイデンティティに近いと思った。でもそれって、感性そのものが変化するということを意味していて、変化させているのはやっぱり感性に従ったり、従わなかったり、誰かの感性を真似した、経験なのではないか。経験じゃん。生きてきた時間をどう使ったか、それがアイデンティティか?

 

それなら生まれたばかりのこどもはどうなる?

彼らは経験など持っていない。もっと年を経たとしても3歳くらいまでの経験は、誰かに加護され生きてきた、とくくれば全員同じだ。それでも性格や感じ方や嗜好に違いが出る。そうなると遺伝子なのだろうか。そうすると双子は同じ性格なわけで、結局遺伝的要因×環境的要因の掛け合わさったものがアイデンティティであるというなんともつまらない話になった。最悪だ。真実がただしいことを自分の思考で証明することほど私のアイデンティティが傷つくことはない。私のアイデンティティとは、思考方法とか感性とか感情そのものだと思っていたから、誰かと、ましてや世間と同じなんてまっぴらごめんなの。そう思ってたのよ。

 

同じ遺伝と同じ環境を持ってれば同じ人間なのかよ。いやそうか。まあ絶対ありえないわけだけど。双子は相当似うるんだろうなあ。でも全く同じにはならないんだろう。そもそも遺伝子が全く同じにはならない時点で。

 

結局親と自分の環境を愛するしかなくなってしまう。誰からも自由でいたいのに、自分を肯定するには親や自分の環境を肯定しなければならない。自由でいたいのに。ああそうか、思考や感情を拠り所にしていたのは、自分という存在を自分だけで成立させたかったからだ。

多分私が地に足がついていないのはそういうわけだ。自分を成り立たせてきたものを、自分の元を、軽視している、軽視したいから。だから、諦観したふりをしてもずっと子供っぽいところがあって、リアルに弱い。リアルを無視しているから、リアルに弱い。このまえ付き合いの長い友だちに言われた「どこか行っちゃいそうだよね」って、あっていたのかもしれない。なんのことかわからなかったけどそういうことなのかもしれない。

でもそれでも、地に足がついた人間になりたいと思えない。リアルを見て、自分という存在の脆弱さと社会性を理解して、それでも自由であらなきゃいけない。もう自分の脆弱さと社会性を理解した時点で、地に足がついてしまいそうだ。

重く、べたべたしていて、つまらない。守るしかない。そんな人間に絶対ならないって思うのは、母親は私にとって反面教師なのだろうか。

幸せを目指すことだけが幸せかよ、なんて悪態ついてたけど一番幸せを求めているのは自分かもしれない。

なかなか本気で笑わない、父親への嫌味をよく言う母を、私はどう捉えてきたのだろう。私は、わがままでいいし、いい人なんて思われなくていいからすきなことしたい、ってそういう観念がずっとあった気もする。過度に家族に要因を求めるのは良くない気もするけど。私は、母親に幸せになってほしかったんじゃないか。綺麗事を言えばそうなるんじゃないか。若いころのやんちゃな彼女の話を聞くのがすきだった。だから私は彼女と恋愛について話をしたいのかもしれない。母親の笑っている顔が見たかったのかもしれない。知らない。わからないけど。家族なんて、自分にとって当たり前すぎて、比較対象を探そうとも思わないし見つかりやしないんだから、家族についての理解は年を経ても深まる気はしない。

 

地に足がついていない私にとって衝撃だったのは、就活なんだろう。

自分と同世代で、自分より優れた人間がしぬほどいることに気がついてしまった。

多分、大学という場が自由すぎたのだ。自由すぎて、差が大きく開いてしまった。ずっと遊んでいただけの私は、そうでない、思考力を鍛え、ビジネスを理解し、社会へ溶け込むことに意欲的な人間ばかりに囲まれて、自分の情けなさに気づいてしまった。自由でいたいとかいって、現実で自由を手に入れるための努力を全くしなかった私の情けなさに気づいてしまった。

自由にいるための努力とかマジで意味わかんない。わかんないよ。もう自由じゃねえじゃんそれ。「自由を手に入れるための不自由」だ?うるさいなあ。そういうこと言ってないよ。けど、もうそれしかないんだよ。自分の存在が自分だけでは成り立たないこと、自分の運命は自分だけでは良くも悪くも成り立っていないこと、自分は社会のなかにいる人間が産んだものであること、社会に守られて育ってきたこと、社会を志向していること、社会が愛しくてたまらないこと、社会の汚さに辟易とすること、全部、全部認めたら、もうやるしかない。私の自由を今から手に入れるために。やるしかない。

 

確かに、私はそうだった。

「やるしかないなら早くやろうよ」っていう人間だった。遊ぶために生きているような人間だった。食と、すきな人と、開放を求めて生きていた。「そっちのほうがかっこよくね?」って美で動く人間だった。

 

別に、

仕事が生きがいじゃなくたって、思考が複雑じゃなくたって、真面目な場面ですべて頼ってもらえなくたって、すきなはずの彼と違ったっていいんじゃないか。

すきな人が、いつの間にか目指すべき像となり、比較対象となり、正解になってしまった。多分、相性と時期が悪かった。あのときに、こんな人間の近くにいたら、私はこうなってしまうのだった。

けれどもちろん恨むつもりもない。いや本当は、もっと優しくしてくれたって!と思わないでもないけど、もっと大人っぽい人と付き合えばよかった!とか思わないわけではないけど、彼と会わなかったら私はまだ地に足がついていなかったかもしれないし、地に足がついた人間を一生嫌わなければいけなかったかもしれないし、怠惰になってしまったかもしれないし、何にも気が付かなかったかもしれない。

 

私がすきなもの、

銭湯、フェス、音楽、食、すきなひとたち、

全部開放するためのものだった。私を無駄な緊張から、恐れから解き放つものだった。

私は一番誇らしい自分を知っていて、それは開放された私で、なんでも許せる私だった。人間を愛で包める私のことが、私はだいすきなんだと思う。

そうであれたら、そうであるために、私はしっかり立ってやろうかなあ。

今の地面に立って、ちゃんと鎖は外して、いまはたまに数センチ飛んで笑いながら、いつかは10mくらい常に浮いていられたらなあ。それを目指して生きられたら、たぶんそれでいい気がする。

またふゆだ

夏が1番すきだと言い続けて何年だろう、いまだに夏がすき、ずっとすきでいたい。

 

でも冬もすき。寒くて、クリスマスソングが流れて、寂しくてしあわせ。

歩いていればすきなひとを自然に思い出す季節だ。

 

私にとってすきなひととは、手が届かないひとなのかもしれない。

同じ土俵で戦いたいんだけども、同じ土俵で戦ってしまったらいまなら圧倒的に負けが決まっているような、経験値でぶん殴ってくるひとたち。

そんな彼らに憧れて、敬愛して、悔しくて、かっこよくてすきになってしまう。

強い感情を抱く時、それは恋だし悔しさだ。手に届かないから、飛び道具みたいな恋愛を使って、異性という肩書を使って斜めから目の前に降り立つ感じ。そんな気がしてきた。

 

彼らに浅ましいところ死ぬほど見せてる。憧れる人間にほど見栄を張ってしまうの辞めたいなあ。けどもそういうものなんだよ。

どう都合よく解釈したって、バカか?と思われているだろうし、しょうもないと思われているんだろうが、なんとか関係性が保たれているので私の自尊心もギリギリ保たれている。あ~あ、人間ってなあ、、。

 

彼らはいつだって自分が正解みたいにしている。思いやりの主語を使わずに断言する人間も、自分の意見を言わない人間も、自分が正解かのように納得しながら生きているようだ。はあ腹立つなあ。誰も正解を持っていないはずなんだけど。

 

真面目ぶっているのが、目の前のことに執着するのが、きらいだ。

小さなことや自分の感情や自分に執着するだとか、ただのからかいを本気かどうか議論しているのが浅ましい。自己紹介になっているなあ。ねえ。

でもどうにもこの真面目精神みたいなものが消えなくて、これが田舎臭い気もしていて、ソフトボールを真剣にやりすぎたかもしれない。

違うんだよなあ、自由になりたいし自由な私もいるのに、私のこと引っ張り続けている私がいる。ああでも自由って本当の自由じゃないし、わからないなあ、すきなひとと戦いたいから同じ土俵を選んでしまいそうで怖い。

逃げたくない。それぞれのよさとかそうじゃなくて、ちゃんと肩を、隣で肩を並べられる人間になりたい。斜めとか、場所が離れていて遠くから挨拶するんじゃなくて。

 

でもそれは彼らに認められたいからじゃない。彼らと並べるだけの人間であると自分に認められたい。

私は結局誰からの承認も必要としていないんじゃないか。本気で誰に褒められようと、癒やされるのは心が死んでいるときだけで、いやいつでも癒やしではあるんだけど、ああうれしい!生きていてよかった!となることは少ないんだな。

私は、私に最高って思ってもらいたい。そのための理由付けをしていく人生。よりよく生きるのはそのためで、美しくなりたいのもそのためか。

多分、多分だけど、私に認めてもらえれば、そのときは私の前から権力とか恐れがいきなり消えるんだろう。それは遠くない気がしていて、そこまで近くない気もしている。

 

はやくゆるしてあげて

恋人が腹立たしくてしょうがない。

 

なんで1年半も一緒にいて、私が不機嫌なときの発言には裏があることとか、あなたに不満をいだいているときの態度とか、そういうものを全く理解してくれないの?

私の寂しさや悲しさは到底彼の手に負えそうなものではない、正確にいえば「はいはい」という態度で一緒にいられても何も嬉しくない。

だから私は結局彼を他人と思うしかなかったはずなのに、それが悲しくてそういうものなのだと理解するしかなかったはずなのに、彼が自分にとって私がどうこうとか言うから。私がつらいときにそんなこと言うから。だから私彼が許せない。

他人じゃないなら、彼にとって私が他人でないなら、それなら私が辛い時絶対一緒にいてよ。すこしくらい何かを犠牲にしたって一緒にいてよ。私のこと助けてよ。

それか、彼は自分のために私にあれこれいっているんなら、もうそんなひととはいちゃいけない。わからないけど、そんなひとと一緒にいてはだめだ。そんなひとも変わるのではないか、変えてあげたい、そんなエゴで最初は包んでいた気がするけど、そんな自信もなくなってしまった。私はそんな人間じゃないんだ、きっと。彼ができていることができないし。ダメ人間だから。とか。なんか私の価値観が貧しくて苦しい。

私は、彼にとって私はすっかり他人ではないと思っていて、だから私のこと全部わかってほしいしわかったなりの行動をしてほしい。それが重いのか、私のことがまだわからないのか、わかったなりの行動はできないのか。

行動ができないとしたら、もうそれはそこまでなんじゃないの。だって、わかってて、知っていて、行動しないなんて、そんなの愛があるもんか。

私が寂しがるの知っていてなんでフォローの1つもできないのかわからないし、恥ずかしいなんてどうでもいい。彼の羞恥心なんて私の心を救うためなら捨てられるでしょうよ。

彼なりの解釈で、いつまでもその解釈でいられると思わないでほしい。私にだって解釈があって、どっちが正しいかなんてわからなくて、私を愛するなら私の解釈を理解しようとするくらいしてほしい。いままでごめんね、私が悪いんだなんて謙虚ぶって!

早く私と生きる覚悟をしてよ、恋愛はきれいでも合理的でもないのわかってるくせに。私は彼の家族計画に乗るつもりなんてないし、彼も私の人生に全部合わせる気なんてさらさらないだろうけど、恋愛するということはそういうことでしょ、いまを一緒に生きるって覚悟することでしょ。

 

お互いを支え合って、なんてきれいごとくそくらえ。お互い一緒に沈んで、くらいだろ。沈んでも笑っていられるよね、二人なら沈んでもいいよね、そのくらいの覚悟でしょって私はまだ思ってるよ。

双方きれいな恋愛なんてどこにあるんだろうか。ありますか?もしあれば教えてください。