制服記

いつまでも不自由を愛さないでね。

わたしたちといもうとたちのゆくすえ

ピアニストを題材にあつかった映画を見て、美しさに涙が出た。

スポーツ選手のあの凛とした強さのある目をみて、はっとさせられる。

ずっとなにかに集中してのめり込んできた人に憧れて、ときに背筋を正されたつもりになって、またそんなこと忘れて俗の世界にまみれている。

私たちはかんたんに、他人の人生を単なる娯楽として扱う。

実際の生活になにも影響しないものとして。

 

ピアノで演奏されるクラシックを聞いて、小学生の頃を思い出す。

あの頃私たちは、みんな、社会人くらい忙しないタイムスケジュールで動いていた。

学校から帰ってきたら、親に怒られない程度にランドセルを玄関に放り投げて、行き先を伝えて小走りで目的地へ向かう。1時間しかなかろうと躊躇なく遊ぶ約束を取り付けたし、あとのことなんて考えず体力のあるかぎり全力で遊んだ。するとやがて、チャイムがなって、あ、今日はピアノに行くの、おれサッカー、なんていってなごりおしく別れる。今度は着替えて、親に急かされながら車に飛び乗って、習い事へ向かうのだ。

ただやりたいという気持ちだけではじめるのに、毎週律儀にもなにかしらを上達させることに夢中になっていた。

 

中学生になると携帯をもつことが一般的になり、スマホが広く普及していった時期と重なっていた記憶がある。いまでは私ら世代で使っていない人を見つけるほうがむずかしいほどのSNSも、あの頃は新しい遊び道具だった。

そしてSNSで他人の生活を覗き見ること、知らない誰かの教えてくれる有益情報を参考にして購買をすること、自分の考えやすきなものを声高らかに表明することに慣れたのが高校生くらいか。

 

自分のスマホで、スクリーンタイムという機能を利用している。

これは大変便利で、指定したアプリを開いた合計時間が定めておいた基準を超えると、簡易な利用制限がかかるものだ。

SNSにスクリーンタイムを設定しているのだけど、毎日、このスクリーンタイムの表示が現れては制限を解除していて、ただ手間を増やすだけの習慣をもう1年くらいは続けている。毎日毎日、2時間以上はSNSをみているということだ。

毎日、だれかのおすすめするコスメの情報をブックマークして、話題のあの人の美談に感銘をうけ、あこがれの生活をする人の写真をみて背筋を正され、知り合いの考え方やどうでもいい情報を手に入れる。自分の実際の生活になにも影響を与えないものを、毎日せっせと集めては満足し、集められない日にはなにかよいものを見逃したのではないかと感じる。一通り回覧して満足したら、実際の生活に戻る。実際の生活をやるときになれば、さっきまでのだれかの情報なんて頭に残ってはいない。ライトで、ふわふわしていて、確かそうなのに全然実感のない情報は、いつのまにか消えていく。そこに費やした時間とともに。

出会えてよかったと思える情報をみつけて、考え方に変化が起きた。新しい視点を得られた。なんだか背筋が伸びた。ほっこりした。

そう思って、つぎの瞬間には、自分の生活に戻り、刺激を、癒やしをくれたコンテンツを作り出した才能ある人物の人生なんてかまいもしない。SNSに悪口を書いて知らぬだれかの人生がぐちゃぐちゃになろうが、書いた当人の人生はまったく別のところでいつもと変わらず進んでいく。よくもわるくも、実際の生活にはなにの変化も及ぼさない。なにも。でも、もう、インスタントに結果だけを知ることに、だれかの成果だけを見ることに慣れすぎて、自分の地味な生活だけに集中できなくなってしまった。過程はつまらない。

 

私たちが小学生だったころ、目の前には実際の生活しかなかった。

もやもやする気持ちを匿名で発散できる場所なんてなかったし、全部自分で実際にやってみたかった。流行りのもの、みんながもっているもの、そういうものをミーハーじゃん、と一蹴する余裕はなくて、その代わり純粋にたのしめる気持ちがあった。

私たちはあのころ、実際が十分刺激的だった。

逃れられない環境、目の前で起こることはすべて自分に関係のあることだった。毎瞬間、生活がうごいていた。経験や感覚、私自身で過程をへて得たものが、私の生活をうごかしていた。

 

私と妹は年が7つ離れている。

彼女は、SNSのない学生時代をほぼ過ごしていない。趣味の合う友達が学校ではすくなくとも、SNSで知り合いをつくっている。中学生は使えるお金も多くないから、失敗している余裕はなく、SNSでバズったコスメをたくさんもっている。彼女は、高校生になったらバイトをしたいらしい。なぜかはしらないが、せっかくなにかに集中できるときなのに、と思ってしまう。お金で買えるものなんて、インスタントだよ。でも、もう、慣れちゃったよね。そういう世界に。

 

インスタントに慣れた私たちは、どこへいくのだろう。

私たちの実際の生活のなかで、のめり込んだり、傾倒したり、突き詰めたり、そういうことがどんどん苦手になっている気がする。私たち以上に、妹たちもそうかもしれない。

よいとされる、効率的とされる、コスパのいい、見てくれのいい人生を歩むことは得意かもしれない。いい子になることも。

けれど、興奮して、どきどきして、本気で泣いて、向き合わなければいけないものに震える、そういうたのしい人生を歩むのは苦手になってしまうんじゃないか。

私たちと、妹たちの行く末、「自分ならではの」人生を歩めるだろうか。

日記

まとまりなく、ただの日記。

 

結局、自分が何を思って、何を大事にしていて、どういう選択をしているかをきちんと認識して、納得している人がかっこよくみえるのではないかなと思う。

たぶん、どれだけネチネチしていたって、腹黒くたって、自分の哲学があってそれを大事にしている人は、合う人にとってはかっこよくみえるんだろうな。

だいすきな先輩と数カ月ぶりにご飯に行った。

先輩とは大体近況報告、すきなものの話、考えていることを話すんだけど、今回は非常にダメージが大きかった。もちろん、先輩はすごく暖かくてやさしく伝えてくれるんだけど、陳腐な言葉で言えばたくさん刺激をもらったということ。

私は私の思慮深さに対しては結構自信を持っているようで、他の人に負けたくないと思う部分の1つだったりする。アイデンティティを多少そこに置いてるからすごく悔しくなるんだと思うんだけど。それはさておき。

先輩は、いつのまにか?先輩に対していつのまにかというのは失礼な話なのだけど、結構一人で考えるタイプのようだから、知らぬ間にいろんな出来事や感情と向き合っていて、私が悩んでいることにすでに答えを出している。それが悔しい。しかも、自分が経験してきてすでに乗り越えたことにまだ向き合っている私の話をゆっくり聞いてくれて、暖かく返事を返してくれる。そんな所作ができることにも感動し、尊敬を覚える。

そもそも、いつのまにか、何かを教わる、自分が下に立つことで先輩とうまくやるといういわゆる後輩ムーブではなくて、本当に純粋に人間として先輩と付き合っている、付き合ってもらっていることがしあわせである気もする。ひとえに、先輩が私からでも学ぼうとする素敵な姿勢で接してくれるからかなとは思うんだけど。

そう、それで、私は先輩がすでに乗り越えていることにまだ向き合っているのかというのが悔しかったし、それより個人的な感情というより相対的に自分は優れているわけではないのだと思い知ったことが悔しかったのかもしれない。

前に先輩とあったときよりも、多少人の話を聞けるようになったから、こうして悩めているかなと少し思う。私が結局悩んでいるのは、自分の囚われていることと自由を求める気持ちや周りのみんなの自由さを見て憧れる気持ちとの折り合いの付け方で、自分の囚われていることとは、どうやってありのままの自分と評価されたい自分の折り合いをつけるかということである。

私は一般的な女の子には当てはまらないところが多少なりともあって、普通ができない。多少人に驚かれるところがあって、それを開示するのに勇気がいる。愛されなければ意味がないのに、愛されないかもしれない素質を持っている自分を人に見せるなんてギャンブルだ。そうしたギャンブルみたいな要素を自分の中に抱えなければいけないこと、隠しておくべき自分がいることを負い目に感じて、隠しておくべき自分が発露してしまった場合にひたすら凹む。こんなんじゃ愛されない、愛されない自分なんて、とずっとずっと否定している。

いろいろ調べて今日得た答えは、「愛されなければ」は生き抜くために自然と染み付いてしまった強迫観念であり自分が選んだ答えではないのでは、ということ。実は人に言われたことのある言葉だ。「愛されなければいけないわけではない。愛されたいと思うことは自然だし無害だ」そうした旨のことを言われたことがあった。

私的には愛されなければ、と、愛されたいは同じところから出てきた感情だと思っていた。だって愛されなければいけないから愛されて自分の価値に安心したいのだ。けれど、もしかしたら違うかもしれないと少し理解できた。愛されなければいけないというのは自分の経験から作られた思い込みで、愛されたいのは私が人とのつながりから喜びを得るから。愛されたくて愛される行動を取るなら、そのとき感情との葛藤は起こらないはずだ。愛されたいときは愛される行動を取ればいいし、自分のやりたいようにやりたいなら好きに行動すればいい。いつでもどこでも愛されなければいけないわけではない。自分が囚われた経験をもう少し正確に表すと、いつでも人が不快にならないように行動しなければいけないわけではない。子供のころと違って自分で環境を選ぶことも一人で生活していくこともできる。誰かのいうことを、望む行動を取れない自分を責める理由なんてなかったんだ。でもやっぱり愛されたかったからさ、小さなときは。

あとは、物事を乗り越えていく早さについても、何が要因なんだろうと思う。心の成熟が早い人って、結構タフな出来事を乗り越えているイメージがあるから、根本的な問に至るほどの強い経験をしてそれを乗り越えた数なんだろうか。強い経験から得た価値観をそのまま内製して言葉にしづらい人もいるし、言葉にして理解している人もいる。私は、きっとそのまま内製してしまったら、忘れて悩んだりしそうだから、経験して言葉にしていくのがいいのかな。

昨日の夜から今日ずっと考えることしかしてなくて、少し成果が出て安心している。これは一時的な答えに過ぎないから、安直に言葉にして納得しちゃうのもなんだかなというところはあるんだけどとりあえず、どうにかしたかったのよ。

 

それから、最近褒め言葉を受け取れていないなと思う。

誰から褒められても素直に受け取っていないし、本当にうれしいと思っていない。前者は、もっと上があることを知り、謙虚でいるべきと思ってしまったんだろう。人生何かを成し遂げるためだけにあるわけでもなし、プロセスこそがたのしいのだと分かったつもりでも、周囲10m程度を見て相対的にできることをアピールするのがいやだった。早く突き詰めないと、私の好きなこととして語れない。そう思って、上を見続けるしかなかった。私は完璧主義なところがあるから、できるようになってから〇〇と思いがちだけれど、相対的に優れていることで誰かに頼られたりするし、完璧でなくとも始めないと始まらないんだなあと先輩の話を聞いて再認識した。後者は、どこにも権威を認めたくないなと思ったから。私が認められるべき権威があることは苦しくてやめたかった。権威を認めない事自体はいいのだけれど、人に評価されたいという気持ちがある限り、うれしいと思えないのは問題がある。ああこうやって自分で問題を永遠に設定していくんだな私は、、

褒め言葉然り、いまあるものを愛せていない。私が疑いの目を向けていた恋人の行動だって、POPEYEでは「これが令和のニュースタンダード。」とか言われていた。なんだ、ああ私なにも間違っていないじゃん、私が自信もてばいいだけじゃん。POPEYE構文に励まされるとは思っていなかった。自分にあるもの、たくさんある。何もできない期間が続いていたけれど、その期間だって、誰かとの関係が続いた何ヶ月なわけで、前の自分が持っていなかったものを持っているのかもしれない。成長していない部分がいやでいやで本当にいやで嫌いでたまらなくて、自分を全否定しちゃうけど、いまあるものでもしあわせになれる、過去は過去でいまはいま。新しい自分になっていい、きっと。過去の自分と今の自分を切り離したっていいはずよ。

 

今日はとりあえず眠くなってきたので終わり。

続きはのちほど。つぎは自分の好きなものと嫌いなものについて。

いきがしづらい

ここのところずっと、心の根底で腹を立てている、常に。

本当は、ここのところ、ではなく、ずっとかもしれないとも思う。

 

最近は、小さなことがやけに目につく。

狭いアパートで、どこかに手をぶつければ壁を叩きかえす。床の掃除を数日できていないだけで、すぐホコリが溜まることにため息をつく。コーディネートが決まらなくて授業に少し遅刻して、誰が時間なんて概念を作ったんだと恨めしく思う。信号待ちで少年に数秒見られ、カラーレンズのめがねが浮いているのか気にかかる。

朝から、小さないらだちと、そのいらだちを抑える理性との戦いで疲れる。

 

ずっと、みんながスルーしている事柄を勝手に大げさに慈しんだり、嫌ったりしている。

男の子が、承認欲求とプライドの高さで自分の首を締めている様子は、遠くから眺めている分にはすごくかわいい。自分の業績を黙っていられる品性と自意識の強さを持った人、抱きしめたくなる。酔って弱さを見せる女とそれに群がる男たちは、浅ましい。言わない品性、なんていうけど大して誰も気づいてくれない。

奥底で絶えず何かに意見を言っているのは、私の性分なのかもしれない。美意識が強いからね、とでも思わないと、他人がスルーしている事柄に自分の感情がこれだけ振り回されることに納得がいかないわけだ。

自分の嫌いなところは、私の原動力になったり、理性になったりしてきた、こういうとげとげした強い美意識、はたまた規制だ。

 

強い美意識は、すぐによくわからないものさしで自分と他人の行動をジャッジして非難して感情を生み出す。けれど、その感情を外に出しては色々不都合なことが起きるのは十分存じ上げているので、ひとり、感情と理性を戦わせないといけない。

思えば、そんな風にひとり葛藤する場面を多々経たことで、「人間は生来孤独である」というような巷の言説を少しは理解できるようになったのかもしれない。

 

自分を拠り所にすることが、自分のすべてを受け入れることであると、今は言える。

多分誰だって、本当は全部理解されて受け入れられたい。自分のすべてを、自分にとって好ましい態度で聞いてもらって、それでも何があってもきみのことを愛しているからね、と特別扱いされたい。

けれど、全部を話すには私たちは恐れを知りすぎた、全部を理解してもらうには生き方が違いすぎた、私にとって好ましいすべてを学習してもらうには出会うのが遅すぎる。

全部を託したいと思った誰かに否定されても気丈に振る舞えるほど、自分の価値観を確立できていない青い私たちは、何でも受け入れてくれるひとを、自分の全部を見てきてそれでも私を見捨てないでいてくれる人間を、一番近くに見つけるのだった。

そうして、少し孤独を受け入れて、それでもさみしくて誰かに心底愛されたくて、今日も新しい出会いと強いつながりを求めて、他人と時間を共有していく私たち。

数歳年上の女優の結婚報道を見て焦燥感を抱くのは、結婚適齢期で結婚しなくてはという焦りでも、結婚ラッシュに取り残されてはいけないという見栄でもなく、きっと、たった一人で人生を歩んでいくことへの心許なさと退屈からだ。

友人たちは普通に結婚していくのだろうし、親とて私の生涯に付き添ってくれるわけではない、仕事に生きるといったって私は仕事を生活の全てにできる自信がない。

特段結婚年齢に対するこだわりはなかったがゆえに、恋人に聞かれた「何歳で結婚したい?」に「特にない」などと答えてしまい慌てて訂正したはずが、今では目的の曖昧な競争にのせられているよう。

あー、別に異性でなくてもいいのに、とか、そんなことばっかり思っている。友人と言い合う「一緒に田舎いくか!」「◯歳までに結婚できなかったらシェアハウスしよう」にちょっと期待して後に落胆する、この流れを何回やっただろうか。

誰か、全部分かってくれなくてもいいから、お互いとりとめもない話から真面目な話まですきに話せて、一緒に穏やかな時間を過ごせるひとと、私の愛をすべて捧げられるひとと、早く会いたい。希望がほしい。なんだか最近、息が深く吸える感覚がない。

 

自分のすべてを許すことが、堕落への長い道に繋がっている気がして怯む。

ああなりたい、こう見られたい、そう思っている方が美しくなれる気がする。ただ、気がするだけだ。

このように在るのが快適だから、ではなく、何か結果を得るためにああありたいと思う限り、私は規則に縛られて、いつまでも身構えながら世間を歩いていく羽目になる。

自分の求める自分と、世間で賛美される人間像と、親しいひとの理想像と、その場その場に合わせていけるからこそ、そうでない、強度のある自分がほしい。その強度は、どれだけ判断して経験して腑に落ちた価値観があるか、に依存するのだ、そう思って、歩んでいくしかないんだろう。

長い道のりと、これから待ち受ける辛さに軽く絶望しながら、でも途中で立ち止まって歩んできた道を振り返ったときの満足感に期待を抱いて、進むしかないのか、そうではないのか。

無条件に愛せたら

人を、その人自体を、その人の存在自体を愛せることがあるだろうか。

 

私は割と多様なタイプの人間と付き合える方だと思うが、それは私が彼らの嫌がることをしないから、というのが1つの理由であると思う。

恋人がいきなり送ってきた、羅列された私の好きなところは、だいたい、彼にとってありがたいことか、私の思想や考え方に分けられる。

自分と友人との関係性を有り難く貴重なものに思うのは、誰かとの関係にはない何かがあって、また、煩わしく感じる何かがないからかもしれない。

 

本当に、その人が何をしてもいい、その人であればすべて許せるという境地に、私が生きている間にたどり着けるだろうか。

 

その人、とは何なのか。

あくまで自分のフィルターや偏見を通してしか人を見ることはできない。つまり、自分が経験の中で培ってきた嫌だったことや嬉しかったこと、逆に自分にはなかったものとの比較で人を見ている。

恋はいつも幻影である。自分の中の理想を、理想に近しいと思われる人間にみて、勝手に期待して好きになって、そしてしばらくして現実に気づいたりする。気づかないほど盲目的に恋できるか、または現実を許していけるか、どちらかでしか恋は続かないのではないかと思う。

 

さらに、その人、とは時間軸を含むのか。

人は変化する。すぐ環境に飲まれる。志向は変わる。行動が変わる。

いま、目の前に対峙するあなた、を瞬間的に愛せればそれを愛と呼ぶ、というのも然り、変わっていく1人の人間の人生をすべてまるごと愛することを愛と呼ぶ、というのもまた然り。

前者を愛と呼ぶならそれは特にその人が指す範囲について、とにかくいう筋合いはない、明確なのだから。

後者を考えるとして、変わっていく人間をまるごと愛する、というなら、そこには、「ただし自分の好ましい範囲内で」という注釈はつかないのだろうか。どんなことをしてもよい、心底自分には理解できないことをしてもらってかまわない、というなら、それは本当にその人を愛しているのだろうか。それでは、誰でも、人間誰でも愛せるのではないか。だからもちろん、博愛主義であるというなら納得しやすい。もし特定の1人または複数人を愛するというなら、少し不思議な気がする。

一時点において、とても気に入ったから、その人の人生をすべて愛することとする、というならまた素敵だとも思う。そのように、瞬間の出来事で愛してもらえるなら、一瞬与えられた輝きがそれほど強かったということで、ある意味、全肯定されているような気もして心地よさそうだ。

 

条件のつかない愛を、誰かに与えることができるだろうか。

自分と血がつながっているから、一生一緒にいると誓ったから、そうした前提を一切おかずに、誰かをずっと温かく愛すことができたら、すごくやさしく穏やかに生きていける気がしている。

 

1つ、瞬間的に愛するというのは答えなのかもしれない。

別に、時間を乗り越えて人を愛さなくたって、いま目の前にいるあなたが愛おしい、と思えばそれを愛と呼ぶこともできる。

いつのまにか、私達は、昔の人の言うこと、今まで言われてきたことを知らぬ間に取り入れて、他人に納得してもらえるか否かによって自分で得た定義すらを推し量って、妥当な、妥当と思われるような定義を探している。

瞬間的に愛するだなんて愛とは言わない、そういえばかなり妥当っぽい。ずっと、誰かの生涯に添い遂げることが美徳とされてきたこの国だ。

けれど、そうした直感的に美しい物語に惑わされず、自分の思惑を注意深く見つめて、自分なりに誠実に定義づけ実行できたら、「常識はずれだ」「良識がない」と、美しい物語だけを盲目に正義と思う人に言われたって、本当はそんなことないのではないか。

 

いまだに、誰かのいう愛の定義に納得ができないのだった。

あの日の私と暗い部屋

2年前かそこら、よく聴いていた、というか夜、一人で部屋にいるときは無条件で聴いていたプレイリストに入っていた曲を、久しぶりに聴いた。

あの頃は、どうしようもなかったから毎日のように泣いて友達に電話をかけていただけで、特にそれを異常だと感じたことはなかった。けれど、いま、あの曲を聴いて戻ってきたのは、思い出したくないほどつらくて心がきゅっと緊張する苦しみだった。

 

あの頃と、私はだいぶ変わった。

もう、つらくて、自分の空想や思い込みに苛まれて泣いて疲れて眠ることもほぼない。

代わりに、やるせない気持ちを私に代わって叫んでくれる快楽主義のバンドを聴いて、一人、部屋で踊っている。そして、すべてを拭ってくれる朝をたのしみに、白いシーツに横たわる。

 

何度も何度も考える意味のない"もしも"や、やめたくても癖でしてしまう他人との比較に支配される夜を、自分で終えられるようになった。

考えても結論はでないし、また朝はくる。

どんなに泣いたって、誰も助けてくれない。

でも、必ず朝はくる。

そう思うように、諦めるようになった。

 

諦めをいいことだなんて思えなかった。

そんな頑固な認識を変えてくれたのは、大学終盤でやってくる社会の風習や、恋人のドライなところ、友人との関係の変化、その他いろいろ、私が悪態をつきたかったもので。

渦中にいるとどうしても目についてしまって、囚われてしまう、人間であれば「ちょっといやなやつだよあいつ」とでも吹聴したくなるような、そんな事柄が少しずつ、不覚にも私の考え方を変えてくれたのだった。

何かを諦めたら、それはそれで意外と心地よいことに気づく。

自分で自分をコントロールできることが、一人でも夜を超えられることが、たのしい。

何かを諦めたら新しいたのしさに気づけるかもしれないと、いまなら少し思える。

 

少しずつ変わる友人との関係も、そうやって新しいたのしさをもたらしてくれるのだろうか。

「話したい内容によって話す人を変える」という友人や、理解されたいようで理解されたくないのであろう自分より少し先に社会に出た友人と、理想主義的で、異性と同性の違いをまだすんなり飲め込めない自分の、危うげながらも確実に、存続の意思をもって調整していくこの関係も、きっとまた、ああできたからこそよかったと、そう振り返るべき過程にあるんだろう。

夢見る少女たちが、現実へ足を踏み入れてもどうにか手をつないでいられるように、支え合っていけるように、隣同士、目を合わせながら確認している。

 

思ったよりこの世の中は広くて、もしくは、思ったより人間の自己中心的な視点は狭くて、少し歩む道が違えばすれ違う。

大切にしたいもの、やりたいこと、ありたい姿が、着実に多様性を増して、気軽な意見表明が価値観の違いを明るみに出すようになる。

それでも、きっとしあわせと感じるには、自分だけの譲れないものが必要なのだ。

こんなに、聞いてもない他人の意見と、羨望を煽る知らない人間の業績と、心配を含んだ親しい人間の期待と、自分しか理解のできないトラウマにまみれた自分の世界で、本当にしあわせな瞬間を守り抜くには、ちゃんと譲れないものを認識しておかないと、すぐ流されて、知らない間に、きれいと有名だけれど自分が望みもしなかった島へとたどり着く。

だから、それぞれが自分の杭を立てて、波に飲まれず、立ち止まったり、進んだりしないといけない。

 

もし杭を立てる場所の違いですれ違うようになっても、その人を応援できるように、今までと違って無駄に干渉しすぎないようにしないといけなくて、それが大人の関係というらしい。

そんなのくそくらえで、迷惑だろうと相手のためになる口出しならいくらでもしてやる、というおせっかいな気持ちとともに、もし自分の感情が抵抗してもその人がしあわせだというならそれは尊重したく、できれば祝える自分でいたいという自身への期待。

その人のしあわせのために、手を離したとき、それを友情と呼べるかは正直まだわからない。それでも、過去の夢見る少女たちのしあわせに期待を込め、前に進めればと願う。

 

夢見る少女たちは、それぞれ自分の道を歩み、ときにどうにもならないことにぶつかり諦め、また前を向き、変わっていく。

もし現状維持を願い立ち止まれば、他の少女たちとはずいぶん離れてしまうから、やっぱり自分を信じて、ときに手をつないだり少し遠くから手を振ったりすることを願って、前に進んでいけばいい。

変わらない世の中に、自分に、絶望しても、やっぱり何度も前を向きたい。

どうにか笑って、この世を愛して生きていきたい。

 

もうあの曲は聴けないけれど、あの曲を聴いていた頃の自分を恥じることしかできないけれど、いまの曲を聴けなくなる日がこないことを願うようで、聴く曲がまた変わっている日を願うけれど、それでもどうにかやるしかないから、また今日も自分だけの応援歌とともに。

あいとかなんとかいってたよ

 

私が大事にしてきた愛は、人への強い思いはただの執着だったかもしれないと、突然勘づいたのであった。

 

ルールを欲しがってしまう、何か決まったルールを信じていきたい、それは私の弱い部分なのかも。

 

私のルールは、すきなひとなのだ。

分かりやすい宗教とかコミュニティじゃないけど、私にとっての信奉。愛の矛先。宗教とかコミュニティと同じように、自分が認められるための手段。

だから、永遠にすきなひとが途切れない。

 

私は異様に自己肯定感が低いのかもしれないと、ふと銭湯の脱衣所で思い立った。

正確にいうと、私という人間は私の愛を受け入れるほどの器でないのではないか。

だから、誰かを熱狂的に愛して信奉して、その人に認められることで自分を認めている。

 

分かんないんだよな、自分を拠り所にする意味が、究極の戻る場所を自分に置くことの意味が。

とか偉そうにいうけど結局私も私が一番可愛いんだろうけどさ。

でも、つまらない。自分を拠り所にして、何が楽しいんだったか?

 

分かんないから、理想や関係性に執着してる。

ただ、自分の愛を執着と捉えたら、ああなんかここにいるのって虚無で違う気がしてくる。

執着に塗れているだけで、「ありがとう、私の人生にとって大事で必要な存在だった」と一言言えれば足元から簡単に崩れていくように思える。

 

怖いよ、怖いなあ、私の大事なものたちが何でもなくなるなんて、私を賭ける存在がいなくなるなんて。

全部虚構みたいだ。

日常的で人間的な一切を愛した昼下がりがあれば、日常的で人間的な一切が気持ち悪くてしょうがない夜がある。

結局全員人間で、遺伝子レベルの影響を強く受ける動物でしかなくて、日常とやらを何十年やり続けて小さな情動に翻弄されて死ぬのか。

私も例に漏れず、遺伝子に促されて、自分の生存のために必死で感情を抱き行動していくんだろう。

 

全員人間で、ただの人間で、どこにもルールがないとしたら、あーなんかめちゃくちゃつまんないよ。

 

そんな事を考えながら聴いた、最近すきなバンドの曲は、どこか軽くて抜けていてニヒリズムが漂っているように思えた。

いつもめがさめるようなかんかくといっしょに

 

 

「、、なんでもないっ」

そう、そうやってちょっと威勢のいい、聞くことをためらうような言い切りの「なんでもない」には、悪いニュースがついてくることを知っている。

それでも私は聞かなきゃならない。いつか裏切られてしまうかも、と怯えるほうがよっぽど怖いのだ。

「生きづらいな、と思って」

とっさに考えたことは明らかに私の本音だった。おまえが言うか?

 

「そうやって、周りの人のことをいちいち気遣って、必要なのは分かってるけど、めんどくさすぎる、」

「それって私がそう振る舞うことであなたに危害を与えるからってこと?それとも、あなたが世の中で生きていくうえでってこと?」

「そう、俺が生きていくうえで」

ああよかった。前者を答えられていたら、一瞬で泣きながら怒ってしまうところだった。

 

「生きづらい」なんて、彼の口から聞くとは思わなかった。

「生きづらい」なんて、言いたくなかった。だって、そうやって逃げてしまいたい項目が、恐ろしくたくさんある。それで逃げられたら、厭世の志向がもう少し強かったら、どんなに楽だっただろうか。

 

私はあなたに反対のことを思う。

想像力がなくて楽そうでいいよね。だって、その言葉で、私の生き方を「めんどくさい」で片付けるその言葉で、私を傷つけるかもしれないとか考えなくていいんでしょう。そうやって、自分の辛さを、気にせずストレートに口に出せるんでしょう。長所と短所は紙一重。だなんて分かっているように言っても、何も分かってないじゃない。魂のこもっていない言葉で、知ったかぶりをするなんて、最高につまらない。

「ひねくれすぎだろ~」「なんで怒ってるの笑」そんな風に、私自身の葛藤を、辛さを、軽い言葉とその時の感情で、簡単に踏めるなんて、踏んでいることなんて気づかないで、このままずっと気づかないで、そんな自分を否定しないで済むんでしょう。

からしたら、あなたの方が100倍くらい生きやすい。うまくいっている中でうまくいかないものを1つ見つけて「生きづらい」なんて羨ましい。

 

もっている人ともっていない人、そんな最悪な二項が最近自然と思われる。

弱者と強者。繊細と鈍感。なにがそれを左右しているのかは知らない。

けど、弱者のいくつもの苦痛を「めんどくさいから見ない」ひとを、弱者の極論を「なんでそんな考え方になるんだろう。理解できない。」と一蹴するひとを、自分と同じだと思えない。

「めんどくさいものは見ない」ひとたちの、何が多様性だ。

多様性なんて、死ぬほどめんどくさいものだ。社会は分類が2つしかなかったジェンダーさえ受け入れられなかったのに、何がジェンダーダイバーシティだ。

どうせ、自分と50%同じで50%違うひとまでしか仲間だと見なさないくせに綺麗事を言いやがって。みんな気づいているでしょう、本当にバックグラウンドが違うひとを、理解することは、そういうひとに寄り添うことはできないってことに。しゃらくせえんだよ。

「恵まれてる」と口にするひとの何割が、真の意味で「恵まれてる」と思っている?

何割が、運次第で自分も自分が忌避する人間を作る環境にいたかもしれないと思っている?自分が厭う人間に自分がなり得たかもしれないこと、本当にそれはあり得ること、「自分は絶対ならない」なんて言えないことを、誰が理解している?

ただただ自分の状況や持ち物に陶酔するための「恵まれてる」だってことは分かっているし、別にどんな言葉を使ってもいいけれど。近代の貴族の美徳は一切見えなくて、悲しくなる。これが、これから世界の行く末か。

 

私は自分の何が嫌いなのか分からない。

エゴなのか、自我なのか、ナルシシズムなのか、自己憐憫なのか、レッテルに甘んじるところか、人間くさくて自分の美徳で許せない部分なのか。

簡単に口に出すひとが、思考や思惑が透けて見えるひとが、自分を開き直っているひとが、執着がみえるひとが、嫌で仕方ない。人間らしくていいね、だなんて、そうなんだろうけど、そう受け止められればいいけど。

分かっているつもりだ。弱いから、辛いから、口に出すし見栄を張るし、そういう状態になるときはほとんどのひとに必然だろう。それでも、みんなしょうもない人間だと言うなら、ならばみんな優しくしたらいいのに。表面上だけでも、しょうがないねって言っているフリしてくれれば。そんなことしたら、私みたいな訳の分からない人間が出来上がるだけか。

これだけ嫌だ嫌だと言っていても、言っているこの文章ですら、他人から見たら上記の要素をたっぷり含んだ文章なんだろう。ああ嫌だ。こうやって自分を縛っていくんだ。ああはありたくない、そんなことをいったら人間できなくなってしまう。出家するなり、一人で生きるなりしなければいけない。SNSなんてのは、一人になるために一番いらないものだから、だから私に向いていない。裏垢も、ストーリーズも見たくない。知りたくも見たくもない、強者の思想を振りまくみんなを見たくない、恋人に染まるあの子も、私に影響されるひとも、みたくない。いいのかそれで。ねえ、いいんですかそれで。「生き方の凝りはその人の自己防衛の結果である。」そんな言葉に今日出会ったのだった。

 

正義なんてない。正義なんて振りかざすのが最悪だ。

ああはならない、ああならない自分はよい。あれは最悪、それをしないだけ私のほうが優れている。

結局みんなその思想だ。私もか?私もだよ。

でも分からなくなってきた。「ああはならないから自分はよい」のではなくて、「ああいう姿でありたくない、目指す方向としてあれはない。」と判断した時にも嫌悪感は生じるからだ。その嫌悪感すら飲み込んで、「ああそれも人間だよな、私の嫌悪も彼女の嫌悪も彼の怠惰も自己正当も、すべて人間であるゆえにしょうがない」。私の理想はこれだろう。

例え自分がその理想を叶えたとして、それでも世間一般のムードがここに至ることは相当先だろう。もっと、すべてのひとがこういう思いをして、こういう思いを声高らかにいうひとが出てきて、格差間の戦いが起きて、どちらかが勝って、幸運にも繊細なひとが勝てば世間のムードになるだろうか。それとも、世界はそこまで素直でもアホでもないから、言えばもっているひとたちが、もたないひとをうまいやり方で利益を保持しながら懐柔するだろうか。どちらにせよ、私の理想は、現世では浸透させるのは夢物語だと、そんな風になる。

そして、「私が理想を叶えるのは勝手だけども」、「俺ら/私達は知らない」。

そうやって、受け入れる人が受け入れていくんだろう。それが、人々の拠り所になってある程度の人的資本は手に入るだろうが、現世的な幸せを求めるとしたらなかなか厳しい戦いになるのだ。きっと、何度も、透明な水をひとに渡しては泥水で返され、必死で濾過しては渡し、泥水で返されるんだろう。濾過の大変さを知らず、分かろうともしないひとたちに、好かれ、て? それで、満足できるだろうか。それって幸せだろうか。幸せを求めているのだろうか。いや、私は、私の思い通りにすることが大事だったから、それでは幸福と言えないんだろう。

 

追いつかなきゃいけない、私も頑張らなきゃいけない。

やろうと思っていたことを先輩に先越され、自分はこれだから、と思う。

自分の進みたい道を、迷いながらも確かに進んでいる友人達が羨ましい。

負ける気はしない、でもそれは幻想でこのまま置いていかれてしまうのかもしれない。

焦る、焦る、焦る。私だけが置いていかれてしまう。

そういう思考が私をさらに置いていく。

 

ああ、私に、自我を捨てるだけの陽気さを、全てを飲み込むだけの適当さと愛を。