制服記

いつまでも不自由を愛さないでね。

いつもめがさめるようなかんかくといっしょに

 

 

「、、なんでもないっ」

そう、そうやってちょっと威勢のいい、聞くことをためらうような言い切りの「なんでもない」には、悪いニュースがついてくることを知っている。

それでも私は聞かなきゃならない。いつか裏切られてしまうかも、と怯えるほうがよっぽど怖いのだ。

「生きづらいな、と思って」

とっさに考えたことは明らかに私の本音だった。おまえが言うか?

 

「そうやって、周りの人のことをいちいち気遣って、必要なのは分かってるけど、めんどくさすぎる、」

「それって私がそう振る舞うことであなたに危害を与えるからってこと?それとも、あなたが世の中で生きていくうえでってこと?」

「そう、俺が生きていくうえで」

ああよかった。前者を答えられていたら、一瞬で泣きながら怒ってしまうところだった。

 

「生きづらい」なんて、彼の口から聞くとは思わなかった。

「生きづらい」なんて、言いたくなかった。だって、そうやって逃げてしまいたい項目が、恐ろしくたくさんある。それで逃げられたら、厭世の志向がもう少し強かったら、どんなに楽だっただろうか。

 

私はあなたに反対のことを思う。

想像力がなくて楽そうでいいよね。だって、その言葉で、私の生き方を「めんどくさい」で片付けるその言葉で、私を傷つけるかもしれないとか考えなくていいんでしょう。そうやって、自分の辛さを、気にせずストレートに口に出せるんでしょう。長所と短所は紙一重。だなんて分かっているように言っても、何も分かってないじゃない。魂のこもっていない言葉で、知ったかぶりをするなんて、最高につまらない。

「ひねくれすぎだろ~」「なんで怒ってるの笑」そんな風に、私自身の葛藤を、辛さを、軽い言葉とその時の感情で、簡単に踏めるなんて、踏んでいることなんて気づかないで、このままずっと気づかないで、そんな自分を否定しないで済むんでしょう。

からしたら、あなたの方が100倍くらい生きやすい。うまくいっている中でうまくいかないものを1つ見つけて「生きづらい」なんて羨ましい。

 

もっている人ともっていない人、そんな最悪な二項が最近自然と思われる。

弱者と強者。繊細と鈍感。なにがそれを左右しているのかは知らない。

けど、弱者のいくつもの苦痛を「めんどくさいから見ない」ひとを、弱者の極論を「なんでそんな考え方になるんだろう。理解できない。」と一蹴するひとを、自分と同じだと思えない。

「めんどくさいものは見ない」ひとたちの、何が多様性だ。

多様性なんて、死ぬほどめんどくさいものだ。社会は分類が2つしかなかったジェンダーさえ受け入れられなかったのに、何がジェンダーダイバーシティだ。

どうせ、自分と50%同じで50%違うひとまでしか仲間だと見なさないくせに綺麗事を言いやがって。みんな気づいているでしょう、本当にバックグラウンドが違うひとを、理解することは、そういうひとに寄り添うことはできないってことに。しゃらくせえんだよ。

「恵まれてる」と口にするひとの何割が、真の意味で「恵まれてる」と思っている?

何割が、運次第で自分も自分が忌避する人間を作る環境にいたかもしれないと思っている?自分が厭う人間に自分がなり得たかもしれないこと、本当にそれはあり得ること、「自分は絶対ならない」なんて言えないことを、誰が理解している?

ただただ自分の状況や持ち物に陶酔するための「恵まれてる」だってことは分かっているし、別にどんな言葉を使ってもいいけれど。近代の貴族の美徳は一切見えなくて、悲しくなる。これが、これから世界の行く末か。

 

私は自分の何が嫌いなのか分からない。

エゴなのか、自我なのか、ナルシシズムなのか、自己憐憫なのか、レッテルに甘んじるところか、人間くさくて自分の美徳で許せない部分なのか。

簡単に口に出すひとが、思考や思惑が透けて見えるひとが、自分を開き直っているひとが、執着がみえるひとが、嫌で仕方ない。人間らしくていいね、だなんて、そうなんだろうけど、そう受け止められればいいけど。

分かっているつもりだ。弱いから、辛いから、口に出すし見栄を張るし、そういう状態になるときはほとんどのひとに必然だろう。それでも、みんなしょうもない人間だと言うなら、ならばみんな優しくしたらいいのに。表面上だけでも、しょうがないねって言っているフリしてくれれば。そんなことしたら、私みたいな訳の分からない人間が出来上がるだけか。

これだけ嫌だ嫌だと言っていても、言っているこの文章ですら、他人から見たら上記の要素をたっぷり含んだ文章なんだろう。ああ嫌だ。こうやって自分を縛っていくんだ。ああはありたくない、そんなことをいったら人間できなくなってしまう。出家するなり、一人で生きるなりしなければいけない。SNSなんてのは、一人になるために一番いらないものだから、だから私に向いていない。裏垢も、ストーリーズも見たくない。知りたくも見たくもない、強者の思想を振りまくみんなを見たくない、恋人に染まるあの子も、私に影響されるひとも、みたくない。いいのかそれで。ねえ、いいんですかそれで。「生き方の凝りはその人の自己防衛の結果である。」そんな言葉に今日出会ったのだった。

 

正義なんてない。正義なんて振りかざすのが最悪だ。

ああはならない、ああならない自分はよい。あれは最悪、それをしないだけ私のほうが優れている。

結局みんなその思想だ。私もか?私もだよ。

でも分からなくなってきた。「ああはならないから自分はよい」のではなくて、「ああいう姿でありたくない、目指す方向としてあれはない。」と判断した時にも嫌悪感は生じるからだ。その嫌悪感すら飲み込んで、「ああそれも人間だよな、私の嫌悪も彼女の嫌悪も彼の怠惰も自己正当も、すべて人間であるゆえにしょうがない」。私の理想はこれだろう。

例え自分がその理想を叶えたとして、それでも世間一般のムードがここに至ることは相当先だろう。もっと、すべてのひとがこういう思いをして、こういう思いを声高らかにいうひとが出てきて、格差間の戦いが起きて、どちらかが勝って、幸運にも繊細なひとが勝てば世間のムードになるだろうか。それとも、世界はそこまで素直でもアホでもないから、言えばもっているひとたちが、もたないひとをうまいやり方で利益を保持しながら懐柔するだろうか。どちらにせよ、私の理想は、現世では浸透させるのは夢物語だと、そんな風になる。

そして、「私が理想を叶えるのは勝手だけども」、「俺ら/私達は知らない」。

そうやって、受け入れる人が受け入れていくんだろう。それが、人々の拠り所になってある程度の人的資本は手に入るだろうが、現世的な幸せを求めるとしたらなかなか厳しい戦いになるのだ。きっと、何度も、透明な水をひとに渡しては泥水で返され、必死で濾過しては渡し、泥水で返されるんだろう。濾過の大変さを知らず、分かろうともしないひとたちに、好かれ、て? それで、満足できるだろうか。それって幸せだろうか。幸せを求めているのだろうか。いや、私は、私の思い通りにすることが大事だったから、それでは幸福と言えないんだろう。

 

追いつかなきゃいけない、私も頑張らなきゃいけない。

やろうと思っていたことを先輩に先越され、自分はこれだから、と思う。

自分の進みたい道を、迷いながらも確かに進んでいる友人達が羨ましい。

負ける気はしない、でもそれは幻想でこのまま置いていかれてしまうのかもしれない。

焦る、焦る、焦る。私だけが置いていかれてしまう。

そういう思考が私をさらに置いていく。

 

ああ、私に、自我を捨てるだけの陽気さを、全てを飲み込むだけの適当さと愛を。