制服記

いつまでも不自由を愛さないでね。

ぜんぜんどらまじゃないけど

全然ドラマチックな文章にならない、まったくもって無機質で最高に人間らしい文章になる。おそらく全然まとまらない。それでもいい、書いてみる事が今の私にとって大切。そうこれは私の再構築記録。

 

やっと見つめた、私の根源は人に認められることだった。誰に、とかじゃなくてより多くの人に認められたい。承認欲求がかなり強いのだと思う。とはいえ、幼少期に無下に扱われた記憶など皆無だ。たぶん、私は人と比較して良し悪しを決める優生思想が強く、それが承認欲求をブーストしていったのだと思う。例えば、「満たされた~」と思っても上を向けばその瞬間に更に上の「満たされた~」が見つかる。それで私は今の自分は全然満たされていない、と思うのだ。当たり前を無下にする、私のやりがちな考え方。上昇志向と優生思想が強いあまりに下を見ることが嫌いで、常に上を見なければいけないと強迫観念的に自分に言い聞かせているのだと思う。

優生思想がなぜ強くなったかは定かでないけど、1つは自己確信の弱さがあると思う。自己確信がかなり弱く、自分ならできると思えど人に言えないし、自分はできると事を進めても「本当にできるのか?」と何度も自分に問うてしまう。そのたびに負けん気でどうにかしてきた。自己確信が弱いから、実績・結果がないと自分を誇れない。自分を良いものだと言えない。それが、実績や結果の人との比較で自分を捉える優生思想になったのではないかなと感じている。

 

人に認められたい私は、所与の条件の中で勝つことが最も効率的な手段だと考えて、第一の目標としてきた。学歴社会において頭の良い高校・大学に入ること、異性からの評価がカーストになる世界においてモテること、資本主義において高い年収・多くの資産・それに比例する暮らし方を手に入れること。

今まで問題がなかったのは、美容・内省や勉強と自分の嗜好が大きく外れていなかったからだ。継続努力が必要な受験勉強はなかなか身につくまで厳しかったけど、勉強のやり方はどんどん新しくなっていくから面白かったし期限付きなのもよかった、ある程度短期で結果が出るのも良かったし新しいことを知るのも楽しかった。ただ、資本主義的なものとはあまり相性がよくないみたいなのだ。もう少し正確に言えば、資本主義によって生み出される価値観とかそういうものと。目的意識とか、合理性の重視とか、そういうもの。私は目の前のことに無心で取り組む時間がすきだし、結構感性的な人間だ。私の周りには同じく感性の鋭い人間が集まっているからいくつか(もしかしたらほとんど)はわかってもらえてしまうかもしれないけど、冬の朝の匂い、夏の夜のコンビニに行かなければいけない気分、季節の匂いで一瞬で思い出される当時の感情と価値観、水の流れの前に長時間いることで浄化される心、空間への好悪、自分の感覚の読み取りの重要性、その日の自分の願望を聞くこと、そういうものを重視する人はそんなに多くないのだろう。今まで誇らしく思いながら、言いたくなかったし目を背けていたけど。だって、私はこの世界の現時点での所与の条件、資本主義のなかでも上手くやれる人間でありたかった。いま、この世は芸術の世界ではないのだ。私のアイデンティティの1つは"価値のある自分"だった。だからずっと所与の条件が苦手だと絶対言いたくなかった。自分のことを価値の出せない人間ですと表明しているようで。

 

人に言われたことは案外そのまま合っている、合っていた。私はずっと、自分の嫌な部分、弱い部分を見られないように、見られて無価値だと思われることを防ぐために、というか自分が"無価値な人物像"であってほしくなくて必死だった。自分の中で生まれてしまうであろう悲しいとか辛いとか嫌だという気持ちを整理したくなくて、"私はそれを認めたくない"という事実を認めたくなくて、人に感情的になって議論を終わらせてみたり、世間を憎んでみたり、人に賞賛の言葉を求めていた。ただ、いくら称賛されても、あなたはそのままでいいんだよ、と言われても全部虚無に見えた。そんなこと意味ないのに、それじゃ私は世の中で評価されないのに、もっとみんなに認められなきゃいけないのに、情けの言葉をかけてもらって私は何をしているんだろう。情けない。言ってくれた相手への憤りじゃない、私のことを愛して大事にしてくれない世界への憤り、その世界を変えられない自分への憤り。

 

自己確信が弱くて自己愛が強いから、自己防衛が強くなってしまう。「自分なら絶対いける」と思えないから、人からけなされる、認められないのが怖い。例えば、恋愛の仕方は人からけなされること、認められないことは怖くない。それは経験と承認が十分蓄積されたことで自己確信できたから。私はもう何を言われたってどうにか上手く恋愛できるし。まあそうは言うけど、あからさまにアプローチが減ると不安になるのは結局根本の自己確信が弱いからだと思う。私はどんな状態でも素晴らしいとは思えない。かなり世の中に迎合して生きてきたのだろう。

 

別に認められたいのがだめなわけではない。ただ、認められなければいけない、とか、全員に認められなければならない、というのは中々苦しい。でも私は私の周りの人に認められればいいとかそんな風ではない。もちろん認めてほしいけど、自分の影響範囲を増やしていくのが結構面白いんだと思う。恋愛とか色欲はそのための簡単な手段だった。いやでも認められたいと言うか、私の世界を人に届けたい。私の中のユートピアを。自分の世界を広げていきたい。私のつくる素晴らしい世界でみんなを救ってあげたい。ここにこれればいいやと思ってほしい、そんな場所でありたい。

 

「私はそんなに弱くないよ」と自分に言ってあげたい。

私はそんなに弱くない。人の言葉から全部守ってあげないといけないほど弱くない。完璧じゃなくて欠点もあるけど、人間らしくて汚いし情けないけど私はそこまで過保護にせずとも生きられる。自分のアイデンティティは"価値の出せる自分"でなくていい、そして"感情"でなくてもいい。

もっと楽になっていいはずだ。私のアイデンティティは私であることなのだろう、きっと。私という主体があること、それが私のアイデンティティなんだと思う。多分ずっと変わっていくけど、ゆく河の流れ絶えずしてしかももとの水にあらずというわけなんだろう。自分という主体であること、それだけを拠り所とする、そんな試みをする。あとは感性。私が感じることは誰に偽物と言われようと本物だし鋭いものだと思う。そうすると、プライドは目標から生まれてくるんだろうか。私の目標はなんだろう。私であること、だろうか。私として生きること、私としてどうあるかということ、そこにプライドを持つ。なるほど、やってみよう。

 

 

後半は書きながら考えたので大分雑。それでいい。

別にもうだめな私を隠す必要も、自分を過剰に守る必要もない。

自分で自分の素直な欲求と感性に向かうこと、そしてそこに言い訳をしないこと。